2014年2月23日 (日)

対局翌日、対局者と関係者は北國会館に移動。第18回北陸ジュニア棋王戦の開会式に参加した。

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(「将棋だけでなく学校の勉強もがんばってください」と渡辺棋王)

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(三浦九段は「将棋は礼に始まり礼に終わるもの。『よろしくお願いします』『負けました』としっかり言いましょう。負けたあとにどこが悪かったか振り返ることが大事。同じ失敗をしないこと」と話した)

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(対局前に二人と記念の握手)

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2014年2月22日 (土)

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■渡辺明棋王
―― 超急戦になりましたが、振り返られていかがですか。
渡辺 中飛車は予定だったんですが、この将棋になるとは思ってなかったので、行きがかり上しょうがないという感じでしたね。
―― どのあたりで優勢を意識されましたか。
渡辺 △3五桂(50手目)と打ったあたりは、いやらしいんじゃないかと。
―― ▲6三桂成(23手目)というのは予想外の手でしたか。
渡辺 そうですね、そこは前例がない手だったので。
―― 少しびっくりされた?
渡辺 冷静に対処しようかなと思いました。
―― これで初防衛まであと1勝となりました。
渡辺 次はまた日が空くので、また気を引き締めていきたいと思います。

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■三浦弘行九段
―― 75分の長考で▲6三桂成とされました。
三浦 後手が歩切れになるのでやってみたくなったんですけども……。無理だったですかね。うまく対応されて。▲6五香(35手目)と浮いて、もう少しいやらしく食いつけるのかなと思ったんですけれども。本譜は遠くに逃してしまう展開にしてしまったので。ただ、△8二玉(38手目)で攻め味が悪いのでなかなか攻めが続かないと思って。何かおかしかったかもしれないですね。
―― 今回の形はずいぶん研究されていた?
三浦 いえいえ。△6二玉に▲6三桂成とやる人はいないんですけども、△7二玉には逆をつくといいますか。桂損をするんですが、その間にうまく攻めがつなげられるかどうかだったんですけれども。指し方が悪かったのか、もともと無理筋だったのか。忙しい展開になってしまいましたね。こちらからすれば。
―― これで2連敗になってしまいましたが、第3局以降の巻き返しについて意気込みを。
三浦 今回は早い段階で悪くしてしまったと思いますので、もう少し面白い将棋にしたいなと思います。第3局までにはまだ時間がありますが、しっかり調整して、前向きに将棋の研究をしたいと思います。

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渡辺棋王の△2七歩が竜と角を封じる「冷たい手」。先手から後手玉に迫る手段がなく、後手からはいくらでも攻めがある。はっきり後手優勢で、控室での検討も行われていない。

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渡辺棋王は△6七香不成(図)と、桂香を使って先手陣に迫っていく。図で▲同金なら△8九馬や△4七桂成など、厳しい攻めがどんどん入る。さりとて▲6八歩と受ければ△6六桂で後手の桂が助かってしまう。ならばと▲7四歩と桂を取るのは△6九香成と金を取られてお手上げだ。どう応じても先手苦しい。後手の攻めが好調に続いている。
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国道から坂を西へ向かうと、石畳と古い町並みが見えてくる。「長町」と呼ばれる地域だ。碑文には「藩政時代はすべて藩士の邸地で、香林坊下から図書橋(ずしょばし)あたりまでの長い町筋であったところから、この名がついたという。また、藩の老臣長氏や山崎長門の氏名に由来するともいう」とある。特徴的な「薦(こも)掛け」は、土塀を雪から守るためのもの。入り組んだ道を歩いていると、タイムスリップしたような気分を覚えて楽しい。

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以下の文は兼六園パンフレットより。

兼六園は江戸時代の代表的な林泉回遊式大名庭園の特徴をそのまま今に残している。
もともと兼六園は金沢城の外郭として城に属した庭であった。庭としての歴史は、城に面した傾斜地が古い。加賀藩5代藩主・前田綱紀が1676(延宝4)年、この地にあった作事所を城内に移し、蓮池御亭を建て、その周辺を策定した。これが本園の始まりで、当時、蓮池庭などと呼ばれていた。
1759(宝暦9)年の金沢大火で、蓮池庭も一部焼失、荒廃した。11代藩主・治脩は復興に取り組み、1774(安永3)年に今にみる夕顔亭や翠滝を築造している。
一方、東南の平坦地である千歳台一帯は、7人の家臣の屋敷があったり、藩校が建てられるなどの変遷があったが、1822(文政5)年には12代藩主・斉広の豪壮な隠居所「竹沢御殿」が完成している。その庭には辰巳用水を取り入れて曲水をつくり、各種の石橋を架けた。竹沢御殿の完成した年に、斉広は奥州白河藩主・白河楽翁に庭園の命名を依頼した。楽翁は中国宋の時代の詩人・李格非の書いた「洛陽名園記」の文中から探って、宏大・幽邃、人力・蒼古、水泉・眺望の六勝を兼備するという意味で「兼六園」と命名した。
竹沢御殿完成後、わずか2年で斉広は死去した。同御殿を取り壊した13代藩主・斉泰は、霞ヶ池を掘り広げ、曲水の新たな取り入れも行い、以前からあった蓮池庭と調和するよう作庭した。
こうして、今にみる雄大な回遊式庭園の基本的な構図はできあがった。
廃藩後、1874(明治7)年5月7日、兼六園は一般開放された。1922(大正11)年3月8日に「史蹟名勝天然紀念物保存法」の規定により、“名勝”の指定を受けた兼六園は1950(昭和25)年、現「文化財保護法」により、改めて“名勝”の指定を受けた。
さらに、1985(昭和60)年3月20日、“特別名勝”となった。

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(文)

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超急戦はしっかり玉を囲う戦いとは異なり、互いに玉が露出しやすく一発が致命傷になりやすい戦型だ。山崎八段は「単発の攻めではなく、どう拠点を作って相手玉に迫っていくか、というところがポイントになります」と解説する。図は渡辺棋王が△6一香(図)と据えた局面。成香で飛車は取られるが、そうした「単発の攻め」よりも、6筋に力を足して先手玉に迫るほうが厳しいというわけだ。図から▲5二成香△同金左と進めば、後手陣はしっかりした金銀の壁ができる。
堅い玉形から、たとえ細くとも攻める展開に持ち込むのが渡辺棋王得意のパターン。本局もいつの間にかそんなパターンに進みつつあるようにも見える。

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