私は、ある対象に惹かれ、でもその素晴らしさが広く知られていなかったり、構造の複雑さゆえに一般にあまりその魅力が認識されていないとき、この手で何とかしてみたいと、いつも心がうずく。自分が面白い、楽しいと感ずる気持ちを、一人でも多くの人に伝えたいと思って、居てもたってもいられなくなる。そして文章を書く。シリコンバレー、無から有のベンチャー創造、アントレプレナーシップ(起業家精神)、グーグル、ウェブ進化が社会を変える可能性。専門の世界で私は、出合って惹かれた魅力的な対象に対し、二十年にわたってそんなことをやり続けてきた。
昨年の夏頃から、さまざまな有難い出会いや勝負の帰趨に誘われて、私は将棋と棋士の世界にどっぷりと浸かることになった
(拙著「シリコンバレーから将棋を観る」)。ここ数年働き過ぎた反省から、昨年春、モノを書くことについてのサバティカル(長期休暇)に入ったはずなのに、私は、対象となるテーマを、現代将棋、羽生善治、トッププロの在りよう、棋士の人間的魅力、といったことどもに変え、まったく同じことに没入してし
まったようなのだ。どうにもこれが自分の性分であり、抗いようのない傾向なのだと、自分でも思う。そして、新潟での棋聖戦第一局から約一ヶ月の間を置いただけで、第五局・最終局が行われる道後温泉にやってきた。最終局の開始は、あと5時間後に迫っている(いまは一人で午前4時の控え室にいる)。
昨年の棋聖戦は、観戦自体がなにぶん初めてのことだったし、第一局の観戦記を書くことだけで頭がいっぱいで、そのあとのことなど何も考えられなかった。第二局以降、一局、一局と熱い勝負が続き、佐藤羽生両者二勝二敗で第五局までもつれこんだのに、再び決着の勝負の観戦に赴くことができず、無念に思いながらシリコンバレーからネット中継を見ていた。しかし幸い今年は、ずいぶん前から予定されていた日本での仕事が今週の前半にあり、今日の第五局は日本滞在を二日のばせば観戦できる、という運のよい日程になっていた。よって昨年の棋聖戦第一局(08年6月新潟)、竜王戦第一局(08年10月パリ)に続く三回目の
「自分との賭け」として、「羽生木村両者二勝二敗なら第五局の観戦記を書きに来よう」と早くに決めた。
このあいだウェブ観戦記を書いた第一局(09年6月新潟)は、羽生さんが先勝した。その打ち上げの席で「第五局の道後でお会いしましょう、必ず二勝しますよ」と明るく笑った木村さんは、第二局でタイトル戦初勝利(着物姿での初勝利)を上げ、第三局も勝って一気に初タイトルに王手をかけた。しかし羽生さんも「カド番で七連勝」という底力を発揮して第四局を制して二勝二敗となった。よって私は、本当に道後温泉に来ることになったのだった。
日本に向けて出発する直前の先週、アメリカ人の友達にこの話をしたら、Last
minuteで旅に行くかどうか決まって、しかも行先さえ誰かに決めてもらえるなんて最高に楽しいな、お前、面白い世界を見つけたなあ、と羨ましがられた。確かにそう。こんなシチュエーションはリアルライフの中ではあまりない。この状況を大いに楽しみながら、これからまた長い一日になるが、精一杯リアルタイム観戦記を頑張ろうと思う。
ところで今日は、勝又清和六段(その該博な知識、啓蒙精神、語り口ゆえに「勝又教授」とも呼ばれている)と一緒にする初めての仕事になる。実はもうそれだけでわくわくしている。私は彼の名著「消えた戦法の謎」を読んで以来、勝又将棋評論をこよなく愛するようになった。勝又さんの、将棋を俯瞰して眺める視座、将棋を進化という視点から語る論理に魅了され続けてきた。今、渾身の羽生善治論を執筆中という「勝又教授の頭脳」を、熱局の推移とともに、少しでも多く引っ張り出して言葉にできたらいいと思う。
さて話は二ヶ月前にさかのぼる。
勝又さんが、棋聖戦挑戦者決定戦(木村稲葉戦)の産経新聞観戦記担当で、挑決の一部始終を見続けていたと知り、東京で飲んで話そう、ということになった。
五月の半ば、東京での仕事を終えたあと、午後8時をまわって新丸ビル内のレストランに着くと、勝又さんは開口一番、棋聖戦挑戦を決めた木村さんの△6二飛を絶賛し、こんなことを言ったのだ。
「この△6二飛は、今日時点のコンピュータ将棋には指せない手なんですよ。コンピュータの判断だと、玉の逃げ場をふさがず、飛車が死ににくい△5二飛を選ぶでしょう。でも木村さんは、玉のすぐ横を壁にする△6二飛を選んだ。さらに、△4四銀で飛車先でなく角道を止め、2筋に歩を打たずに△6五歩と伸ばしたんです。居玉で、飛車筋素通しで、玉の横が壁で、それでも相手の攻めがないと判断した。この大局観こそトッププロならではのもの。コンピュータ将棋には指せない手を指して勝つのがトッププロなんですよ。」
「コンピュータ将棋には指せない手を指して勝つのがトッププロ」というのは最高に面白く現代的な仮説だ、と私は思った。
勝又さんはさらにこう続けた。
「そういうことが、最近のトッププロの将棋には増えている気がするんです。梅田さんが観戦記を書かれた将棋で言いますと、去年の棋聖戦第一局での佐藤さんの△4二玉。控え室で渡辺さんが「1秒も考えなかった手だよー」と叫んだ一手ですね。これは、玉は守るものではなく攻めるものという概念を形にした佐藤さんの手で、あの時点のコンピュータ将棋では指せなかったと思います。余談になりますが、コンピュータ将棋がおそろしく強くなったイメージが、渡辺竜王の現在の将棋だと僕は思うんです。だから渡辺ボナンザ戦は、渡辺竜王が自分の影と戦っていたような将棋と思えました。だから、梅田さんがパリで観戦された竜王戦第一局の渡辺羽生戦を、私は、未来に人間対コンピュータ将棋の最高峰の戦いがあるとすればこんな将棋になるのかもしれないと思いながら、観戦していたんですよ。」
「この人はなんて面白いことを言うんだ」と、私は勝又さんの話を聞いて思った。
勝又さんは、プロ棋士でありながら、東海大学数学科卒の理系人間でもあり、コンピュータ将棋の動作原理を深く理解し、その進化の推移を昔からウォッチし続
けてきた人だ。彼の頭の中にある「人間のトッププロとコンピュータ将棋の違い」についての知識を、人間対人間の現代最高峰の将棋が指されるタイトル戦の現場で受ける刺激の中でこそ生まれる新しい言葉で表現することはできないだろうか。私はそう思った。冒頭でふれたような私の抗し難い傾向ゆえ、心がうずいたのだ。そして思わずこう尋ねていた。
「勝又さん、僕は棋聖戦第一局の観戦記を書きにまたすぐ日本に来ますけど、その日、一緒に新潟に行くことはできませんか」
その日は順位戦と重なっているから無理だ、と勝又さんは言う。
「では、第五局がもしあったらどうですか? 7月17日ですけど」と私は言った。
勝又さんは、手帳を取り出し、17日なら大丈夫と答えた。そしてこう続けた。
「よし、第五局があれば、僕も道後に行きましょう。どういう将棋になるかで、何を議論できるかわかりませんけれど。つい数日前、今年のコンピュータ将棋選手権で優勝したGPS将棋を開発した東大の研究室に行ってきたんですよ。僕はそっち側の人間でもあるから、話を聞いていて楽しくてね。コンピュータ将棋、
どんどん強くなっていますよ。今のコンピュータ将棋は、プロ棋士が現代将棋を究めていくそばから、その成果を学んで強くなります。伸び代もまだまだある。コンピュータ好きの人間としては、こんなに興味深いことはないけれど、プロ棋士としては、こんなに怖いことはありません。」
そんな経緯で、勝又さんも昨日から一緒に道後に来ている。
第一局の観戦記第一回でも触れたが、これから十年の間に、人間の最高峰対コンピュータ将棋が対決をする日が間違いなくやってくる。
「そのときどちらが勝つのか」という単純な興味だけではなく、人間の最高峰対コンピュータ将棋の対決の場とは、人間の能力の深淵や人工知能の可能性をめぐり、私たちが未来についてさまざまなことを考え得る豊穣な機会を与えてくれるものになるはずだ。
あるとき拙著のネット上の感想を読んでいたら、超一流ということについて、「一般人とプロの差よりも、プロと超一流との差の方が遥かに大きい。草野球をしている人がプロ野球選手になるよりも、普通のプロ野球選手がイチローのようになる事の方が遥かに難しい」という主旨のことを書いている方がいた。もしこれが将棋の世界にもあてはまるとすれば、来年か再来年にはプロ四段クラスの実力に到達するのではないかと予想されるコンピュータ将棋と、羽生さん、木村さんをはじめとするトッププロの差は想像以上に大きく、これからがコンピュータ将棋の正念場になると考えることもできるかもしれない。
昨夜の前夜祭のあと、勝又さんと飲みながら、そんな仮説を彼にぶつけてみた。
「そうですね。ここから先は本当にわからないですね。ただ、ちょっと前までは、プロ棋士側の危機感はまったくなかった。コンピュータ将棋が強くなって自分たちを脅かすなんてあり得ないと思っていました。でも、コンピュータ将棋も本当に強くなってきた。いろいろ技術的なブレークスルーも起きたけれど、最高に優秀な人たちがコンピュータ将棋開発に参入してきた感じが、特に最近はしているんです。今年優勝したGPSの開発メンバーの師匠格にあたる東大の田中哲朗准教授の完全情報ゲーム解析への情熱と才能はものすごいし、開発メンバーである金子知適(ともゆき)東大助教も、グーグルでエンジニアをやっている林芳樹さんも、とにかく最優秀の頭脳の持ち主です。コンピュータ・チェスに関する過去の膨大な研究の蓄積なんかも英語の原文で読んで、将棋プログラムの改良に応用して強くなるかどうか実験していたり、そんなことを毎日やっている。でもね、確かにおっしゃる通り、一般人とプロの差よりも、プロと超一流の差の方が遥かに大きい、というのはそうなのかもしれない。でもそれは本当にわからないです。」
勝又さんはこう答えた。
私個人はと言えば、「コンピュータが進歩に進歩を続けて人間のプロの最高峰に挑みながら、紙一重のところで人間が勝つ」ということが相当長く続く未来の戦いを見てみたいと思う。そして、そのことと「コンピュータ将棋には指せない手を指して勝つのがトッププロ」という勝又仮説は、深く関係する問題なのではな
いかと思う。
今日は午前9時から(おそらく)午後7時過ぎまで、羽生さんと木村さんによる「人間最高峰の将棋」が指されるが、その間、金子知適さん(+集まれれば他のGPS開発メンバーも)の研究室と、ここ道後温泉の控え室をホットラインでつなぐ予定だ。
『金曜日はほぼ全日オンラインの予定です。検討局面等ありましたらお気軽にご連絡ください。(通常は授業があるのですが、今週はないので計算機の前にいられます)』
とは、金子さんから勝又さん宛に届いたメールの一部とのこと。
「コンピュータ将棋には指せない手を指す」ことができるのは、トッププロの大局観ゆえのものであろう。棋聖戦第一局は、奇しくも、トッププロ間で大局観が大きく割れるという将棋でもあった。
今日は丸一日、勝又さん、そして立会人の屋敷さん、ネット解説担当の三浦さんらも交え、トッププロの大局観をテーマに、コンピュータ将棋の大局観(形勢判断の評価関数やその学習機能)とも対比させながら、第五局を見つめてみたいと思う。まもなく始まる棋聖戦第五局の将棋は、果たして、そんな思考を巡らせるに適した将棋になるだろうか。