カテゴリ

梅田望夫氏、第80期棋聖戦第5局リアルタイム観戦記

2009年7月17日 (金)

【梅田望夫最終局観戦記】 (10) 構想力で最高レベルを行った羽生の芸術的将棋

 午後6時43分、106手までで羽生棋聖が勝利をおさめ、棋聖位を防衛。四冠を堅持し、棋聖位通算を8期に伸ばした。

 終局後、木村挑戦者は作戦負けだったことを強調し、羽生棋聖の構想力に敗れたと認めた。

 「飛車の取り合いになって、▲4八金で手番がまわってきたので、そこからは面白くなった」と羽生棋聖は本局の感想を述べたが、木村挑戦者はもっと早い段階(46手目の羽生△3一玉に驚いていた、感想戦のニュアンスではまったく想定していなかったようだ)から、かなり形勢が「悪い」と感じ、全106手の後半半分以上を、「悲観的になり過ぎたかなあ」と述懐するほどの精神状態で、指し続けていた。

 「本局は内容が良くなかった。本譜の順になるくらいなら、いくらでももっとうまい順があったかもしれないけれど、具体的によくわからないなあ。▲5六飛もまったく意味がなかった。△4五桂のときは、すでにもうかなり苦しいと思っていた」と木村挑戦者は語った。

 これまでに観戦したどのタイトル戦よりも感想戦は短く、羽生棋聖の構想力の秀逸によって大差になってしまった将棋だったと言える。

 一つ前のエントリーをアップしたあとすぐ午後5時20分から対局室に入って。「負けと知りつつ、目を覆うような手を指して頑張」り続ける木村さんの姿を、結局、午後6時43分までずっと眺めることになった。特に第四局で初タイトルに手が届くところまで行っただけに、木村さんは無念だったに違いない。

 木村さんは棋聖戦の直前に、こんな文章を書いている。

 『幸いにも棋聖戦の挑戦者になることができた。また、王位戦でも挑戦者決定戦に臨むことになった。このところ、まずまず自分の将棋が指せているという実感がある。とはいえ、まだタイトル戦では1勝もしたことがないのだから大きなことは言えない。余計なことは考えず、これからも自分の力を出すことに集中するしかないと思っている。目指すのはタイトル戦の初勝利であり、それができたらまた次の目標を考えたい。』(将棋世界2009年8月号)

 木村さんは若き日から「余計なことは考えず」、一つ一つの目標を設定し、「それができたらまた次の目標を考え」ながら、階段を一歩一歩「着実」に「着実」に上ってきた人である。

 「自分はいつか必ず名人になるという気持ちを、いつ何時も、まったくぶれずに持ち続けている、それが、木村君です」

 木村さんの親友・行方尚史八段はこう評する。

 羽生さんと木村さんの年齢差はわずか三つ。羽生さんが前人未踏の七冠制覇を達成したとき(1996年2月14日、25歳)、木村さんは22歳、奨励会三段だった。少年の日から打ち込んできた将棋でプロになれるかどうかも定かでない、まだ何者にもなれていない若者だった。木村さんのもう一人の親友・野月七段は「羽生さんが七冠制覇に邁進していたときですか。木村と僕は、三段リーグで上がり損なって、しょっちゅう泣きながら飲んでいた。そんな記憶ばかりが蘇ってきます」と振り返る。

 自分が選んだ道の先に、生涯手の届きそうもない同世代の天才が疾走している。そんな環境下での木村さんの「着実」で真摯な生き方は、普通の人生を生きる私たちに、大きな勇気を与えてくれるものだと、今日、最後まで頑張る彼の姿を眺めながら、つくづく思った。いずれ必ず「着実」に、タイトルを獲得する日が来ることと思う。

 ところで今日のテーマでもあったコンピュータ将棋の現在について、勝又さんはこう総括する。

 『やっぱりこれほどのクリエイティブな将棋に対しては、コンピュータはまだ苦手かなと思います。正直、この将棋で言えば、羽生の構想に木村挑戦者が参った、と。いわば一番クリエイティブな将棋ですから、それを見せて、それで比較するのは酷かもしれないですね。これでコンピュータ将棋を論ずるにはさすがに……。トップ中のトップと比較して、指し手が当たらなかったからと言ってコンピュータが弱いというのは、いくらなんでも。でも、トッププロのレベルの高さと比べたときに、一番差が出るところがあらわれたと思います。木村さんの終局後の第一声で「3一玉か」って叫んだじゃないですか。要するに、羽生さんの構想に感心しました、と言っているわけで。さすがにそこは比較対象にはできません。もし比較になったらおそろしいですよね。』

 私の感想はと言えば、金子さんからの

 『悪い手を指すとすぐに負けてしまうゲームなので、たまに良い手を指せても全体としてはまだまだだと思います。』

 というコメントが強く心に残った。それは、「一手の誤りもなく完璧に良い手を選ぶようなソフトにしていかないと、おそらくトッププロに勝てない」ということを意味しているのだと思う。

 どんな世界も、99.9%を99.99%に、そして99.999%にと、精度を上げていくごとに難度が上がる。今日の第一回のエントリーで

 『私個人はと言えば、「コンピュータが進歩に進歩を続けて人間のプロの最高峰に挑みながら、紙一重のところで人間が勝つ」ということが相当長く続く未来の戦いを見てみたいと思う。』

 と書いたが、私は、私が見たい未来を、見ることができる、と確信した。相当先までx-dayは来ないのではないかと、私は強く思った。人間の能力の深淵を垣間見た一日だった。

 

【梅田望夫最終局観戦記】 (9) 終盤を読むコンピュータ

 午後4時過ぎから小一時間対局室にこもったが、羽生さんが40分以上の長考で△6五桂を指しただけだった。ときおり「うん、そうか」とひとりごち、正座とあぐらを繰り返しながら、羽生さんはこんこんと考え続けていた。

 控室に戻ったら、金子さんからこんなメッセージが届いていた。

 『悪い手を指すとすぐに負けてしまうゲームなので、たまに良い手を指せても全体としてはまだまだだと思います。とはいえ、偶然でも、たまにでも、良い手を指せると嬉しく思います。』

 そして、木村さん渾身の受けの手▲4八金に対するGPS将棋の指し手も届いた。

 『4八金の後の局面です。途中までは△8九飛その後65桂に変わりました。評価値が後手に傾いてきています。 -725 △6五桂▲5六歩△8九飛▲6一飛△7九飛成▲4一飛成△3一歩▲4六歩△5七銀▲4七玉△2九龍▲4五歩△4八銀成▲3六玉△2八龍▲2四桂』

 いまは、△8九飛で木村さんが考えている局面。▲4八金の後は、△6五桂▲5六歩△8九飛と、コンピュータの読み通りに推移している。


 

【梅田望夫最終局観戦記】 (8) その気持ちをなくしてしまったら、きっと坂道を転げ落ちる

 「これは検討通りに、一直線に行ってしまうかもしれないねえ」

 という棋士たちの声を背に、午後3時に対局場に入った。木村さんが32分の長考の末、検討通りの▲7三歩成を指したところだった。消費時間は、両者ほぼ130分ずつと均衡している。まだまだ時間はたっぷり残っている。

 木村さんは傍目にもちょっとつらそうに見える。やはり生身の人間だから、表情やしぐさやときおり発する声で、その感じが盤側にいてもわかる。対局者同士は、傍で想像する以上に、相手がどう考えているかを感じ合いながら、戦っているのだろう。

 『羽生名人は1時間4分考えて▲2三歩と垂らしてきた。この長考中は本当に苦しい時間だった。▲2三歩でも▲5二金でも私が悪そうで、光は全く見えない。こんな時は平静を装うだけでも疲れる。羽生名人が席を外す度に私は大きくため息をついたり、頭を抱えたりしていた。控室や大盤解説場のモニターには映っているが対戦相手にだけはこんな姿を見せてはいけない。』

 昨日、羽田から松山に向かう飛行機の中で、渡辺竜王から届いたばかりの新著「永世竜王への軌跡」を読んでいたら、竜王戦第七局の熱闘を振り返って渡辺さんは、こんなことを書いていた(p230)。

 永世竜王を賭けた渡辺羽生の竜王戦最終局の終盤で、自らの非勢を意識しているときの描写である。木村さんの胸中も、こんな感じなのかもしれない。

 控室では羽生勝勢という声も聞こえる。

 いま木村さんは、74手目△5六角に対しての手を考えている。でも、きっとまだまだ頑張るだろう。

 私がこの棋聖戦の観戦記を書くために、木村さんの過去の言葉を調べていていちばん感動したのが、彼の腹の底から絞り出されたような、こんな言葉だったからだ。

 『負けと知りつつ、目を覆うような手を指して頑張ることは結構辛く、抵抗がある。でも、その気持ちをなくしてしまったら、きっと坂道を転げ落ちるかのように、転落していくんだろう。』(将棋世界2007年5月号)

 

【梅田望夫最終局観戦記】 (7) 意表のコンピュータの指し手を控え室で検討。おっ、その手を羽生が指した!

 「この手にどう指すんですかねえ」

 屋敷さんが笑いながら、

 「これ、しびれてますかねえ」と言う。

 この手とは、GPS将棋がしきりに読み筋として指摘していた△4五桂を、ここで指してみたらどうかということである。いまは67手目▲9一桂成に羽生さんが長考しているさなか。

 △4五桂について、控え室の棋士たちの直感は、3三の桂はそのままにして、後手は右辺の駒をさばいていくべき、という棋士の感覚に、コンピュータの感覚はちょっと違う、と言うのだ。

 しかし、屋敷さんと勝又さんが68手目△4五桂を真剣に検討したところ、「いやあ△4五桂で、玉頭がめちゃめちゃ厳しいじゃないですか。コンピュータならではの先入観のない発想が良かったかもしれない」という話になった。

 そこで羽生さんの手がモニター上にあらわれ、指したのが果たして△4五桂であった。控え室で歓声が上がった。

 「羽生さんは、先入観がないからなあ」とは勝又さん。「コンピュータが、この△4五桂を読み筋に入れているだけで、褒めなくちゃいけない」。

 しかし一応厳密にいえば、67手目▲9一桂成の時点でのGPS将棋が一つ最終的に選んだ指し手は、

 『△8二飛▲8三歩△7二飛▲7八金△3一金寄▲8一桂△6五角▲3六飛△2三歩▲8二桂△7四飛▲同馬△同角▲7一飛△7三歩▲7二桂』

 であった。勝又さんによれば、△8二飛はいい手じゃないけど、間違いなく△4五桂は読んでいたはずで、それは高く評価しなければいけないとのことだ。

 そして、68手目△4五桂の局面におけるGPS将棋の手順提示は、

 『▲7三歩成△同銀▲8三馬△7四角▲7二馬△5六角▲同歩△6五桂▲6六角△7七桂成▲3六香△5七金▲同角△同桂成▲同玉△5九飛』

 であった。検討中の三浦さんが声をあげた。

 「ここで検討している手順と全く同じだよ。▲7三歩成△同銀▲8三馬△7四角▲7二馬△5六角▲同歩△6五桂までは、いま屋敷さんと並べている手順そのままですよ!」

 「これは飛車を見捨てる(角損の)寄せなんですよ。本当に終盤になると、おそろしく強いんだよ」とは、勝又さん。「こんな順が読めるんなら、強いよね」

 「68手目△4五桂で、明らかに後手良しです」とは屋敷さん。

 

【梅田望夫最終局観戦記】 (6) 昼食休憩時の形勢:微差で後手が指せるのではないか

 さて、コンピュータ対人間の話はさておき、羽生棋聖対木村挑戦者の形勢、という今日の本質に話を戻そう。

 昼食休憩に入った局面で、三浦さんは「NHK杯戦のような短い時間の将棋なら、相当後手が勝ちやすいでしょう」と、形勢についての感想を述べた。先手の3八金と2八銀の形が悪いうえ、後手は玉が堅く、7筋から銀を繰り出しての攻めもあるので、先手が長い時間を持って細かく対応していけない場合(短い時間の将棋だと)、後手が勝ちやすいのではないか。でも今日の午後いっぱいかけての長い将棋なので、まだまだどうなるかわからないとのこと。

 また立会人の屋敷さんも「微差で後手が指しやすいと思う」とのこと。勝又さんも同意見。後手がいまわずかながらも良さそうなのは、羽生さんの構想力による、先手の馬の働きがそれほどでもなく、8筋の守りに右側の金を使わずに玉側に寄せて囲いを堅くしていく羽生さんの構想力が、2八銀の代償に馬を作った木村さんの構想力の上を行っているのではないか、というのが勝又さんの解説だ。しかし深い研究をしている木村さんは、このあたりまで研究会で経験済みで、さらに先に秘策が用意されている可能性もあると、控室の皆が思っているようだ。

 昼食休憩後の羽生さんの「次の一手」は△6四銀。三浦さん指摘の通りの、7筋から銀を繰り出しての攻めの姿勢を見せ、ほぼノータイムで木村さんは8三に歩を成り捨てた。

 ちなみに、GPS将棋の予想展開は、51手目5六飛の後は、「△4二金上▲3六歩△6四銀▲3五歩△2三銀▲2六飛△2四歩▲6八銀△4四角▲8三歩成△同歩▲3四歩△5五銀▲3三歩成△同金右▲6五馬」であった。

 追記: 午後1時25分段階で、ばたばたと57手目▲7五歩まで進んでいる。「ここが勝負どころですね。もしこの▲7五歩が良い手で先手が盛り返しているとすると、羽生さんの△6四銀よりも、GPS将棋の△4二金上のほうがよかった、ということになるかもしれません」(勝又さん談)

【梅田望夫最終局観戦記】 (5) x-dayは果たしていつ?

 朝からの両者のあまりにも早い指し手に促されて、怒涛のように(2)から(4)までの更新をした。

 そして午前11時、対局室の中に再び入った。そこでやっと落ち着いて(2)から(4)までで書いたことを振り返る余裕を持ちながら、未踏領域の将棋をこんこんと考えふける二人の姿を眺めていた。

 「コンピュータに不向きな将棋」が人間対人間(羽生木村)の戦いで選択されたとはいえ、正直なところ、トッププロとコンピュータの差がここまではっきりした形であらわれるとは、私は思っていなかった。

 木村さんの▲8四歩にノータイムで羽生さんが△8二歩と指し、木村さんが▲6六馬と指したところまで観て、控え室に戻った。そして、私がそんなコンピュータ将棋と人間の差についての感想を口にしたら、

 「終盤は間違えませんよ。第四局の木村さんの終盤での大ポカみたいなことはコンピュータには絶対にありません。」と勝又さんは言う。

 「でも、トッププロとの戦いで終盤になる前に大差になってしまえば、終盤の力をコンピュータが発揮することができないという展開になるのではないですか。x-dayは、相当先なんじゃありませんか」

 と私が問うと、「そうなるといいんですけどねえ」と勝又さんは答えた。

 金子さんからは、こんなメッセージが入ってきた。

 『48手目8二歩打の局面です。 67 ▲8三歩成△同歩▲7五歩△6四歩▲5五馬△4四角▲同馬△同歩▲7四歩△同銀▲8二角△6一飛▲9一角成△5四角▲5六飛△7六歩』

 この手順に対する勝又さんの評価は、「こういう決戦策に出てしまうと、壁銀である2八銀が悪さをする展開になって、先手は勝てないと思います」だった。

 また、木村さんは49手目に▲8三歩成ではなく▲6六馬を指したわけだが、その局面については、

 『49手目 6六馬の後の局面です -235 △4一金▲6八銀△6四銀▲8三歩成△同歩▲8二歩△7三桂▲7五歩△8四歩▲7四歩△8五桂▲同桂△7四飛▲7七銀他に△4二金上や△6四銀と迷ってました。』

 と金子さんから連絡があった。羽生さんはここで△2一玉と指したのだが、コンピュータの△4一金について、勝又さんはこう言う。

 「△2一玉のほうが△4一金よりも囲いの資産価値が高い、ということは、プロ棋士は経験でわかっているわけですね。囲いのリフォームの技術をだいぶコンピュータも習得したと思ったけれど、ここで△4一金と指すようでは、まだまだですね。△2一玉で、金と玉が離れましたね。金と玉の連絡関係をコンピュータは重視するので、△2一玉と指せなかった。でもこの将棋だと、先手が2筋で歩を打ってしまっていて▲2三歩が打てませんから、△2一玉から囲う形がいいんですね。」

 金子さんは、

「GPS将棋には何を指して良いのか分からないのかもしれません。最近ようやく昔ながらの横歩取りの後手番で4一玉と寄れるようになったGPS将棋にはとても難しい将棋になってしまいました。」

 との感想を寄せてくださった。

 

【梅田望夫最終局観戦記】 (4) △5二金なら負けちゃうね

 勝又さんの依頼を受けたGPSの金子さんから連絡が入った。

 『45手目8五歩の局面です -87 △5二金▲6八銀△6四歩▲5五馬△6三金▲3四飛△5四歩▲同馬△6二銀▲6四馬△4五角▲2四飛△6四金▲同飛互角の評価値です。△5二金が何かの狙いを防いでいるのか単に囲いを崩しただけなのか分かりません。』

 46手目のコンピュータ将棋の「次の一手」は、玉の囲いの価値を上げる△5二金だった。しかし、

 「△5二金とは、羽生さんは絶対に指しませんね。一手パスですしね。△5二金なら、木村さんに絶対に負けちゃうね。」

 とは勝又さんの評価だ。そして、金子さんが送ってくれた手順を見て、

 「相当でたらめな手順だなあ。コンピュータはこの局面で何をすべきなのか、まったくわかっていないんです。」

 こんなやり取りをしていたところで、羽生さんは△5二金ではなく、△3一玉と指した。

 

【梅田望夫最終局観戦記】 (3) 時速40手の研究のぶつかりあい

 両者、ものすごいスピードで手を進めている。

 勝又さんによれば、この将棋は、去年8月の渡辺高橋戦を踏まえ、元祖8五飛戦法の中座七段が改良を加えて指した、今年2月20日の飯島中座戦(竜王戦)とまったく同じ展開で43手目(▲6五角成)まで進んでいる。

 「両者、この将棋の先の先まで研究していますよ。木村さんは馬を作って指せると見ている。羽生さんは先手の▲2八銀が悪い形だから指せると考えている。研究のぶつかりあいになりましたね。」

 と勝又さんは言うが、まさに(2)コンピュータに不向きな将棋」で紹介した渡辺さんの述懐通りの展開になっている。

 コンピュータの課題は、この43手目まで来られるかどうかなのだと、勝又さんは言う。この「時速40手で進む展開」の裏には百科事典並みの変化があり、それを全部コンピュータに正しく入れるのは無理だから(結論が日々変わるから。最近は定跡に依存しようとするソフトが負けやすい状況とのこと)、この局面に来るまでに、トッププロによる落とし穴にコンピュータがはまってしまう可能性が非常に強いのだそうだ。でも逆に、特に玉が薄い将棋で、中盤までコンピュータが互角で追随する能力を持てば、さらに一段、コンピュータの強さがアップするのだそうだ。

 「このあと、△7一の飛車の使い道がわかれば、そこからは、コンピュータも読みやすくなりますよ」と勝又さんは言う。

 44手目の△7三銀が指されたところで、木村さんが長考に入り、そして指した45手目▲8五歩で、前例のない未踏領域に入った。

 そして勝又さんは今、GPSの金子さんに電話して、羽生さんの「次の一手」(46手目)をGPSならどう指すかを調べてほしい、と言っている。

 

【梅田望夫最終局観戦記】 (2) コンピュータに不向きな将棋

振り駒の結果、最終局は先手木村挑戦者、後手羽生棋聖に決まった。

午前9時の対局開始から、二人はほぼノータイムで、横歩取りの将棋へと進んでいった。

 「コンピュータに不向きな将棋になりましたね。」

 と勝又さんが言う。

 「手の狙いがちょっと目にわかりにくい将棋は、コンピュータには難しいんです。先手・木村さんは5八玉と3八金の形で、8七歩を打たずに頑張るぞという意志を示して、後手の8五飛を拒否したんですが、それで羽生さんは8四飛から2四飛とした。羽生さんのほうは、先手に2八銀という悪い形を強要するために、2四飛から8四飛に戻して二手損をしているわけです。たとえば「5八玉と3八金」の狙いの意味がわかるのは相当先ですね。「8四飛から2四飛」の効果、つまり先手の壁銀が先手にとってマイナスになるかどうかは、コンピュータ的には相当先にならないとわからない。つまり、相手の手を拒否する狙いの効果がずっと先に出るような将棋って、コンピュータには読みにくいんですね。」

 「いま31手目の状況は、去年の8月29日に行われた渡辺高橋戦(B1順位戦)と同じですよ。その翌日の渡辺ブログにきっと出ているよ、見てください。」

 と勝又さんは記憶を発掘する。まったくそのとおり。下記の渡辺ブログをご参照ください。

http://blog.goo.ne.jp/kishi-akira/e/166b17eb133372594cc43f546af5f1db

『馬が出来るので優勢かと思いましたが自分は壁銀(▲2八銀)後手は歩を3枚も持っているので、難解な形勢でした。』

 とある。たしかに、かなり先の局面で、馬ができるプラスと壁銀のマイナスが相殺されて、結局難解な形勢だと、渡辺さんはブログで書いているわけである。こういうことがコンピュータにはわからないということらしい。

R0011575  

【梅田望夫最終局観戦記】 (1) コンピュータ将棋には指せない手を指して勝つのがトッププロ

 私は、ある対象に惹かれ、でもその素晴らしさが広く知られていなかったり、構造の複雑さゆえに一般にあまりその魅力が認識されていないとき、この手で何とかしてみたいと、いつも心がうずく。自分が面白い、楽しいと感ずる気持ちを、一人でも多くの人に伝えたいと思って、居てもたってもいられなくなる。そして文章を書く。シリコンバレー、無から有のベンチャー創造、アントレプレナーシップ(起業家精神)、グーグル、ウェブ進化が社会を変える可能性。専門の世界で私は、出合って惹かれた魅力的な対象に対し、二十年にわたってそんなことをやり続けてきた。

 昨年の夏頃から、さまざまな有難い出会いや勝負の帰趨に誘われて、私は将棋と棋士の世界にどっぷりと浸かることになった (拙著「シリコンバレーから将棋を観る」)。ここ数年働き過ぎた反省から、昨年春、モノを書くことについてのサバティカル(長期休暇)に入ったはずなのに、私は、対象となるテーマを、現代将棋、羽生善治、トッププロの在りよう、棋士の人間的魅力、といったことどもに変え、まったく同じことに没入してし まったようなのだ。どうにもこれが自分の性分であり、抗いようのない傾向なのだと、自分でも思う。そして、新潟での棋聖戦第一局から約一ヶ月の間を置いただけで、第五局・最終局が行われる道後温泉にやってきた。最終局の開始は、あと5時間後に迫っている(いまは一人で午前4時の控え室にいる)。

 昨年の棋聖戦は、観戦自体がなにぶん初めてのことだったし、第一局の観戦記を書くことだけで頭がいっぱいで、そのあとのことなど何も考えられなかった。第二局以降、一局、一局と熱い勝負が続き、佐藤羽生両者二勝二敗で第五局までもつれこんだのに、再び決着の勝負の観戦に赴くことができず、無念に思いながらシリコンバレーからネット中継を見ていた。しかし幸い今年は、ずいぶん前から予定されていた日本での仕事が今週の前半にあり、今日の第五局は日本滞在を二日のばせば観戦できる、という運のよい日程になっていた。よって昨年の棋聖戦第一局(08年6月新潟)、竜王戦第一局(08年10月パリ)に続く三回目の 「自分との賭け」として、「羽生木村両者二勝二敗なら第五局の観戦記を書きに来よう」と早くに決めた。

 このあいだウェブ観戦記を書いた第一局(09年6月新潟)は、羽生さんが先勝した。その打ち上げの席で「第五局の道後でお会いしましょう、必ず二勝しますよ」と明るく笑った木村さんは、第二局でタイトル戦初勝利(着物姿での初勝利)を上げ、第三局も勝って一気に初タイトルに王手をかけた。しかし羽生さんも「カド番で七連勝」という底力を発揮して第四局を制して二勝二敗となった。よって私は、本当に道後温泉に来ることになったのだった。

 日本に向けて出発する直前の先週、アメリカ人の友達にこの話をしたら、Last minuteで旅に行くかどうか決まって、しかも行先さえ誰かに決めてもらえるなんて最高に楽しいな、お前、面白い世界を見つけたなあ、と羨ましがられた。確かにそう。こんなシチュエーションはリアルライフの中ではあまりない。この状況を大いに楽しみながら、これからまた長い一日になるが、精一杯リアルタイム観戦記を頑張ろうと思う。

 ところで今日は、勝又清和六段(その該博な知識、啓蒙精神、語り口ゆえに「勝又教授」とも呼ばれている)と一緒にする初めての仕事になる。実はもうそれだけでわくわくしている。私は彼の名著「消えた戦法の謎」を読んで以来、勝又将棋評論をこよなく愛するようになった。勝又さんの、将棋を俯瞰して眺める視座、将棋を進化という視点から語る論理に魅了され続けてきた。今、渾身の羽生善治論を執筆中という「勝又教授の頭脳」を、熱局の推移とともに、少しでも多く引っ張り出して言葉にできたらいいと思う。

 さて話は二ヶ月前にさかのぼる。

 勝又さんが、棋聖戦挑戦者決定戦(木村稲葉戦)の産経新聞観戦記担当で、挑決の一部始終を見続けていたと知り、東京で飲んで話そう、ということになった。 五月の半ば、東京での仕事を終えたあと、午後8時をまわって新丸ビル内のレストランに着くと、勝又さんは開口一番、棋聖戦挑戦を決めた木村さんの△6二飛を絶賛し、こんなことを言ったのだ。

 「この△6二飛は、今日時点のコンピュータ将棋には指せない手なんですよ。コンピュータの判断だと、玉の逃げ場をふさがず、飛車が死ににくい△5二飛を選ぶでしょう。でも木村さんは、玉のすぐ横を壁にする△6二飛を選んだ。さらに、△4四銀で飛車先でなく角道を止め、2筋に歩を打たずに△6五歩と伸ばしたんです。居玉で、飛車筋素通しで、玉の横が壁で、それでも相手の攻めがないと判断した。この大局観こそトッププロならではのもの。コンピュータ将棋には指せない手を指して勝つのがトッププロなんですよ。」

 「コンピュータ将棋には指せない手を指して勝つのがトッププロ」というのは最高に面白く現代的な仮説だ、と私は思った。

 勝又さんはさらにこう続けた。

 「そういうことが、最近のトッププロの将棋には増えている気がするんです。梅田さんが観戦記を書かれた将棋で言いますと、去年の棋聖戦第一局での佐藤さんの△4二玉。控え室で渡辺さんが「1秒も考えなかった手だよー」と叫んだ一手ですね。これは、玉は守るものではなく攻めるものという概念を形にした佐藤さんの手で、あの時点のコンピュータ将棋では指せなかったと思います。余談になりますが、コンピュータ将棋がおそろしく強くなったイメージが、渡辺竜王の現在の将棋だと僕は思うんです。だから渡辺ボナンザ戦は、渡辺竜王が自分の影と戦っていたような将棋と思えました。だから、梅田さんがパリで観戦された竜王戦第一局の渡辺羽生戦を、私は、未来に人間対コンピュータ将棋の最高峰の戦いがあるとすればこんな将棋になるのかもしれないと思いながら、観戦していたんですよ。」

 「この人はなんて面白いことを言うんだ」と、私は勝又さんの話を聞いて思った。

 勝又さんは、プロ棋士でありながら、東海大学数学科卒の理系人間でもあり、コンピュータ将棋の動作原理を深く理解し、その進化の推移を昔からウォッチし続 けてきた人だ。彼の頭の中にある「人間のトッププロとコンピュータ将棋の違い」についての知識を、人間対人間の現代最高峰の将棋が指されるタイトル戦の現場で受ける刺激の中でこそ生まれる新しい言葉で表現することはできないだろうか。私はそう思った。冒頭でふれたような私の抗し難い傾向ゆえ、心がうずいたのだ。そして思わずこう尋ねていた。

 「勝又さん、僕は棋聖戦第一局の観戦記を書きにまたすぐ日本に来ますけど、その日、一緒に新潟に行くことはできませんか」

 その日は順位戦と重なっているから無理だ、と勝又さんは言う。

 「では、第五局がもしあったらどうですか? 7月17日ですけど」と私は言った。

 勝又さんは、手帳を取り出し、17日なら大丈夫と答えた。そしてこう続けた。

 「よし、第五局があれば、僕も道後に行きましょう。どういう将棋になるかで、何を議論できるかわかりませんけれど。つい数日前、今年のコンピュータ将棋選手権で優勝したGPS将棋を開発した東大の研究室に行ってきたんですよ。僕はそっち側の人間でもあるから、話を聞いていて楽しくてね。コンピュータ将棋、 どんどん強くなっていますよ。今のコンピュータ将棋は、プロ棋士が現代将棋を究めていくそばから、その成果を学んで強くなります。伸び代もまだまだある。コンピュータ好きの人間としては、こんなに興味深いことはないけれど、プロ棋士としては、こんなに怖いことはありません。」

 そんな経緯で、勝又さんも昨日から一緒に道後に来ている。

 第一局の観戦記第一回でも触れたが、これから十年の間に、人間の最高峰対コンピュータ将棋が対決をする日が間違いなくやってくる。

 「そのときどちらが勝つのか」という単純な興味だけではなく、人間の最高峰対コンピュータ将棋の対決の場とは、人間の能力の深淵や人工知能の可能性をめぐり、私たちが未来についてさまざまなことを考え得る豊穣な機会を与えてくれるものになるはずだ。

 あるとき拙著のネット上の感想を読んでいたら、超一流ということについて、「一般人とプロの差よりも、プロと超一流との差の方が遥かに大きい。草野球をしている人がプロ野球選手になるよりも、普通のプロ野球選手がイチローのようになる事の方が遥かに難しい」という主旨のことを書いている方がいた。もしこれが将棋の世界にもあてはまるとすれば、来年か再来年にはプロ四段クラスの実力に到達するのではないかと予想されるコンピュータ将棋と、羽生さん、木村さんをはじめとするトッププロの差は想像以上に大きく、これからがコンピュータ将棋の正念場になると考えることもできるかもしれない。

 昨夜の前夜祭のあと、勝又さんと飲みながら、そんな仮説を彼にぶつけてみた。

 「そうですね。ここから先は本当にわからないですね。ただ、ちょっと前までは、プロ棋士側の危機感はまったくなかった。コンピュータ将棋が強くなって自分たちを脅かすなんてあり得ないと思っていました。でも、コンピュータ将棋も本当に強くなってきた。いろいろ技術的なブレークスルーも起きたけれど、最高に優秀な人たちがコンピュータ将棋開発に参入してきた感じが、特に最近はしているんです。今年優勝したGPSの開発メンバーの師匠格にあたる東大の田中哲朗准教授の完全情報ゲーム解析への情熱と才能はものすごいし、開発メンバーである金子知適(ともゆき)東大助教も、グーグルでエンジニアをやっている林芳樹さんも、とにかく最優秀の頭脳の持ち主です。コンピュータ・チェスに関する過去の膨大な研究の蓄積なんかも英語の原文で読んで、将棋プログラムの改良に応用して強くなるかどうか実験していたり、そんなことを毎日やっている。でもね、確かにおっしゃる通り、一般人とプロの差よりも、プロと超一流の差の方が遥かに大きい、というのはそうなのかもしれない。でもそれは本当にわからないです。」

 勝又さんはこう答えた。

 私個人はと言えば、「コンピュータが進歩に進歩を続けて人間のプロの最高峰に挑みながら、紙一重のところで人間が勝つ」ということが相当長く続く未来の戦いを見てみたいと思う。そして、そのことと「コンピュータ将棋には指せない手を指して勝つのがトッププロ」という勝又仮説は、深く関係する問題なのではな いかと思う。

 今日は午前9時から(おそらく)午後7時過ぎまで、羽生さんと木村さんによる「人間最高峰の将棋」が指されるが、その間、金子知適さん(+集まれれば他のGPS開発メンバーも)の研究室と、ここ道後温泉の控え室をホットラインでつなぐ予定だ。

 『金曜日はほぼ全日オンラインの予定です。検討局面等ありましたらお気軽にご連絡ください。(通常は授業があるのですが、今週はないので計算機の前にいられます)』

 とは、金子さんから勝又さん宛に届いたメールの一部とのこと。

 「コンピュータ将棋には指せない手を指す」ことができるのは、トッププロの大局観ゆえのものであろう。棋聖戦第一局は、奇しくも、トッププロ間で大局観が大きく割れるという将棋でもあった。

 今日は丸一日、勝又さん、そして立会人の屋敷さん、ネット解説担当の三浦さんらも交え、トッププロの大局観をテーマに、コンピュータ将棋の大局観(形勢判断の評価関数やその学習機能)とも対比させながら、第五局を見つめてみたいと思う。まもなく始まる棋聖戦第五局の将棋は、果たして、そんな思考を巡らせるに適した将棋になるだろうか。

 

=== Copyright (C) 2009 >>> The Sankei Shimbun & Japan Shogi Association === All Rights Reserved. ===