【梅田望夫最終局観戦記】 (10) 構想力で最高レベルを行った羽生の芸術的将棋
午後6時43分、106手までで羽生棋聖が勝利をおさめ、棋聖位を防衛。四冠を堅持し、棋聖位通算を8期に伸ばした。
終局後、木村挑戦者は作戦負けだったことを強調し、羽生棋聖の構想力に敗れたと認めた。
「飛車の取り合いになって、▲4八金で手番がまわってきたので、そこからは面白くなった」と羽生棋聖は本局の感想を述べたが、木村挑戦者はもっと早い段階(46手目の羽生△3一玉に驚いていた、感想戦のニュアンスではまったく想定していなかったようだ)から、かなり形勢が「悪い」と感じ、全106手の後半半分以上を、「悲観的になり過ぎたかなあ」と述懐するほどの精神状態で、指し続けていた。
「本局は内容が良くなかった。本譜の順になるくらいなら、いくらでももっとうまい順があったかもしれないけれど、具体的によくわからないなあ。▲5六飛もまったく意味がなかった。△4五桂のときは、すでにもうかなり苦しいと思っていた」と木村挑戦者は語った。
これまでに観戦したどのタイトル戦よりも感想戦は短く、羽生棋聖の構想力の秀逸によって大差になってしまった将棋だったと言える。
一つ前のエントリーをアップしたあとすぐ午後5時20分から対局室に入って。「負けと知りつつ、目を覆うような手を指して頑張」り続ける木村さんの姿を、結局、午後6時43分までずっと眺めることになった。特に第四局で初タイトルに手が届くところまで行っただけに、木村さんは無念だったに違いない。
木村さんは棋聖戦の直前に、こんな文章を書いている。
『幸いにも棋聖戦の挑戦者になることができた。また、王位戦でも挑戦者決定戦に臨むことになった。このところ、まずまず自分の将棋が指せているという実感がある。とはいえ、まだタイトル戦では1勝もしたことがないのだから大きなことは言えない。余計なことは考えず、これからも自分の力を出すことに集中するしかないと思っている。目指すのはタイトル戦の初勝利であり、それができたらまた次の目標を考えたい。』(将棋世界2009年8月号)
木村さんは若き日から「余計なことは考えず」、一つ一つの目標を設定し、「それができたらまた次の目標を考え」ながら、階段を一歩一歩「着実」に「着実」に上ってきた人である。
「自分はいつか必ず名人になるという気持ちを、いつ何時も、まったくぶれずに持ち続けている、それが、木村君です」
木村さんの親友・行方尚史八段はこう評する。
羽生さんと木村さんの年齢差はわずか三つ。羽生さんが前人未踏の七冠制覇を達成したとき(1996年2月14日、25歳)、木村さんは22歳、奨励会三段だった。少年の日から打ち込んできた将棋でプロになれるかどうかも定かでない、まだ何者にもなれていない若者だった。木村さんのもう一人の親友・野月七段は「羽生さんが七冠制覇に邁進していたときですか。木村と僕は、三段リーグで上がり損なって、しょっちゅう泣きながら飲んでいた。そんな記憶ばかりが蘇ってきます」と振り返る。
自分が選んだ道の先に、生涯手の届きそうもない同世代の天才が疾走している。そんな環境下での木村さんの「着実」で真摯な生き方は、普通の人生を生きる私たちに、大きな勇気を与えてくれるものだと、今日、最後まで頑張る彼の姿を眺めながら、つくづく思った。いずれ必ず「着実」に、タイトルを獲得する日が来ることと思う。
ところで今日のテーマでもあったコンピュータ将棋の現在について、勝又さんはこう総括する。
『やっぱりこれほどのクリエイティブな将棋に対しては、コンピュータはまだ苦手かなと思います。正直、この将棋で言えば、羽生の構想に木村挑戦者が参った、と。いわば一番クリエイティブな将棋ですから、それを見せて、それで比較するのは酷かもしれないですね。これでコンピュータ将棋を論ずるにはさすがに……。トップ中のトップと比較して、指し手が当たらなかったからと言ってコンピュータが弱いというのは、いくらなんでも。でも、トッププロのレベルの高さと比べたときに、一番差が出るところがあらわれたと思います。木村さんの終局後の第一声で「3一玉か」って叫んだじゃないですか。要するに、羽生さんの構想に感心しました、と言っているわけで。さすがにそこは比較対象にはできません。もし比較になったらおそろしいですよね。』
私の感想はと言えば、金子さんからの
『悪い手を指すとすぐに負けてしまうゲームなので、たまに良い手を指せても全体としてはまだまだだと思います。』
というコメントが強く心に残った。それは、「一手の誤りもなく完璧に良い手を選ぶようなソフトにしていかないと、おそらくトッププロに勝てない」ということを意味しているのだと思う。
どんな世界も、99.9%を99.99%に、そして99.999%にと、精度を上げていくごとに難度が上がる。今日の第一回のエントリーで
『私個人はと言えば、「コンピュータが進歩に進歩を続けて人間のプロの最高峰に挑みながら、紙一重のところで人間が勝つ」ということが相当長く続く未来の戦いを見てみたいと思う。』
と書いたが、私は、私が見たい未来を、見ることができる、と確信した。相当先までx-dayは来ないのではないかと、私は強く思った。人間の能力の深淵を垣間見た一日だった。