2008年10月19日の記事

2008年10月19日 (日)

 一日目はゆったりと流れていた局面が、渡辺竜王長考の末の53手目▲2三角から、激しい急流へと転調した。これは「先手が決めに行った手」(米長)で、まさに激しい戦いが始まったわけであるが、ここからの羽生の指し手がなぜかすごく早いのだ。

 △2三同金が3分、△6六歩はノータイム、△6七歩成は1分、△6九角は1分、△4七角成が3分、△6四角が4分。中盤の難所のわりに、あたかも「すべて読み切っているよ」と言わんばかりである。

 特に、64手目の△6四角は自信に満ちたゆったりとした手つきで指された。「渡辺竜王は意表を突かれましたね。ここは30分以上考えるでしょう。」とは米長さんの言葉だが、果たして、ここで渡辺竜王の手が止まった。

 

 このたび羽生竜王戦挑戦までの道のりで、トーナメント準々決勝の深浦戦と準決勝の丸山戦は、信じられないほどの大逆転勝利だった。

 片上大輔五段は、この丸山戦について「衝撃」というタイトルのブログでこう書いた。

 『この驚きをどう表現して良いものか・・中継を見ていてあんなにびっくりしたのは初めてです。(中略) 延々と分からない局面が続き、ようやくはっきりしたかなと思ったその矢先。突然丸山投了と出て、本当に画面の前で絶叫してしまいました。(中略) 昨日は本当に本当にびっくりしました。神懸かっているとしか思えません。』

 そしてそのひとつ前の深浦戦も大逆転(週刊将棋8月20日号の見出しは「羽生逆転勝ち、深浦勝勢が1手で瓦解」)だったのだが、私は棋譜コメントと感想戦コメントを読み比べて、羽生の勝負術に感嘆したのだった。

 90手目、後手羽生の△2六角成に対する先手深浦の▲2八玉が逆転の悪手で、▲4九銀ならおそらく深浦勝ちで、羽生挑戦はなかった。

 そのときのリアルタイム中継棋譜コメントは『力を込めた手つきで△2六角成。』であった。

 しかし感想戦コメントは『ここで△3七歩は「▲2七金と上がられて、打った歩が角の利きを邪魔していては攻めが続かないので△2六角成はしょうがないですね(羽生)」』だったのである。

 羽生は「しょうがない」と思いながら「力を込めた手つきで」△2六角成を指し、そこで深浦が間違えたのである。

 渡辺は△6四角を見て、相変わらず考え続けている。長考は一時間を超えている。

 羽生の「自信に満ちたゆったりとした手つき」の裏にある真意はどんなものなのだろう。


 

2_2  64手目の△6四角は良い手、という評価になっている。米長会長の詳しい解説をお聞きいただきたい。「候補手は3つです。」

(1)▲4五桂打は、△同歩▲同桂で△4一桂▲5三桂成△3三桂▲6二成桂△同玉となって先手の攻めが少し細い。
(2)▲4五銀は(A)△同歩なら▲同桂となって前者に比較して桂を手に持っている分、攻め駒が多いので、難しいが(B)△3七馬と桂を取る。
 以下▲5三金△同金▲4四銀△同金▲同竜△5三銀となって、現局面の一手前に、△4六馬とするよりも、角を一手守りに打っている分だけ後手が儲かった計算になる。これが羽生マジックです。

そこで先手は
(3)▲7五歩と今度は絡めていく手を考えることになる。
想定手順としては△4六馬▲7四歩△同銀▲6六桂で、銀がどこに逃げても▲7四歩と打って、玉頭に迫る拠点を作る。
さらに、単に(4)▲4五桂と跳ねる手もある。△同歩に▲4四歩とじっと垂らしておく。

現在の局面で、渡辺竜王には大きく分けて二通りの方針がある。
「(1)、(2)、(4)のように4六銀と3七桂の2枚を自分から動くことによって活用するか、
もしくは(3)▲7五歩と取らせる間に攻め切るか。ここがヤマ場ですね。」

先手優勢だったはずだが、先手が焦らされている。

5dsc_0255  第1局が始まる前の日、つまり17日に、ベルサイユ宮殿の見学のあと、渡辺竜王は、パリ南部のサン・クルー競馬場を訪ねる。竜王は「ついに来た・・・」と感慨深げ。パドックへ向かう足取りも軽い。オーロラビジョンもなく素朴な競馬場で、パリの富裕層が余暇のために楽しむ雰囲気だ。竜王は3勝1敗と、竜王戦に向けて幸先良し。
 ちなみに、前夜祭会場のロンシャンは、有名なパリ凱旋門賞が行われる競馬場の名前。ちなみにロンシャン競馬場はこの日は開催なしの休み。

4dsc_0255  仏時間・19日、午前7時30分。パリの朝は、遅い。日本では、7時頃は、日が昇り、明るいが、パリは、まだ日が昇らず、暗い。

 その代わりというわけではないが、日が暮れるのが遅いので、この時期19時頃でも、まだ明るいのだ。終局の頃、果たして、日が暮れて暗くなっているのだろうか?それともまだ明るいのだろうか?

 写真は、宿泊の部屋の窓から撮影。モンマルトルの丘が朝日にあたって、幻想的で、非常に美しい。この光景を眺めることができるのも、残すところあと1日。

2  △64角、64手目、めぐり合わせというか何というか。羽生名人のこの一手に検討陣は、苛まれることとなる。意表を付く一手である。この手見た、米長会長は、唸り、黙ってしまった。

 しばらくして、▲45銀か▲45桂打か?

 羽生挑戦者の封じ手は△2四同歩であった。これで二日目の勝負が始まった。

 すぐに渡辺竜王が▲同飛。ここまでは当然の推移である。

 ▲同飛の局面での次の一手としては「△4五歩か△6五歩」という難しい選択肢があったので、△2四同歩の局面で封じた羽生挑戦者は、当然指される▲同飛の局面で何を指すかを一晩考えることができたわけである。そして△6五歩がほどなく指された。

 渡辺竜王がこういう状況を避けるためには、▲2四歩の前の局面(選択肢がある局面)で封じなければならなかったわけだが、そうするためには二日目の残り持ち時間に一時間半近くの差がついてしまう。渡辺竜王は、その残り時間の差のほうを重視し、昨日午後5時台に、▲2四歩を指して、封じ手の権利を羽生挑戦者に渡したのだった。

 これが封じ手と持ち時間をめぐる昨日の二人の駆け引きであった。

 

 ところで、昨日の勝負どころの対局室の中で、私は「渡辺の青」「羽生の壮」を痛感したわけだが、羽生の若き日の勝負のなかで、渡辺にとってのこのたびの竜王戦にあたる「青と壮」の戦いはいったい何だっただろう。

 それは間違いなく、本局の立会人・米長邦雄将棋連盟会長(当時名人)に挑戦した、1994年の名人戦である。

 当時23歳だった羽生は、初の名人戦挑戦を前に「普通の定跡形は指さない」と宣言し、第一局に先手番を握ると、いきなり5筋の位を取って中飛車を指した。名人戦という大舞台で、大先輩である米長を相手に「先手なのに飛車を振る」「矢倉を指さない」というのは、もうそれだけで無礼なことだと憤慨する古参棋士も多かったという。わずか十数年前まで、こんな非合理的な発想が将棋界にははびこっていたのであるが、羽生は「盤上の自由」を名人戦の棋譜で主張したのだった。

 ちなみに、現代将棋の解説・啓蒙にかけての第一人者・勝又清和六段は、その著書「最新戦法の話」第5講「ゴキゲン中飛車」の冒頭で、94年の名人戦第一局について言及し、

 『中央に位を取り、すべての金銀が連絡した美しい陣形ですね。羽生は5筋位取り中飛車の「戦法としての優秀性」を再認識させたのです。(中略)「得意戦法は持たないほうがよい」「よい戦法ならば棋風にこだわらず使うべきだ」という「羽生哲学」は徐々に浸透し、トップ棋士の戦法に対する考え方が変わっていきます。』

 と述べ、名人戦初戦に羽生が米長にぶつけた5筋位取り中飛車という構想が、90年代後半から大流行するゴキゲン中飛車の発想につながっていったと分析している。羽生は、ちょうど渡辺と同い年の頃、米長との名人戦での「青と壮」の戦いを制することで、現代将棋の扉を開いたのである。

 羽生自身、ベストセラー自著「決断力」(角川書店)の「はじめに」で、94年の米長との名人戦のことばかり書いている。私も本を書くのでよくわかるが、著書の「はじめに」で何を題材にとるかは練りに練って選ぶものだ。「決断力」の出版は2005年7月。つまり名人戦の話はその10年以上前の話で、その間には七冠制覇の一局もあったから、別にこの名人戦を書くのが当然という感じではない。にもかかわらず米長との名人戦に「決断力」の「はじめに」で言及したことは、羽生にとってこの勝負が、人生においていかに重いものだったかをよくあらわしている。羽生は当時を振り返って、こう書いているのだ。

 『巷には、「米長、頑張れ」の声が満ちている。それは当然、私の耳にももちろん届いてくる。

 対局前から"様々な反響"が起こった経験をしたのはこの時が初めてだった。何の苦労もなくのし上がってきた二十三歳の若い棋士と、当時、五十歳、幾多の挑戦と挫折をくり返して、ついに栄光を掴んだ「中高年の棋士」米長先生との対決――こういう構図を描かれてしまえば、それは米長先生を応援したくなるのが人情というものであろう。加えて、私は名人戦を前に物議をかもしていた。(中略) 周囲には、

 「羽生、討つべし」

 との非難の声が広がっていたのである。(中略)

 ……こうした雰囲気のなかで第六局は始まろうとしていた。

 その前の三日間、私は、本当に真っ暗闇の道を一人で歩き続けている気持ちだった。』

 

 このたびの渡辺・羽生戦は、いまのところ、まだ第一局ということもあり、ここまでの緊張からは遠いようにも思える。しかし今年の春頃から始まった「羽生、七冠再び」という世論の盛り上がりを見た渡辺は、当時の羽生のような気持ちを感じ続けていたかもれない。

 この夏の王位戦で、深浦(羽生の一歳年下)が羽生を下して王位を防衛していなかったら、いま羽生は五冠で「七冠への足がかり」となる六冠目を渡辺から奪うべく、このパリに来ていたはずだ。そういう状態で今日の日を迎えていたら、さらに今頃の世の中の雰囲気は、渡辺にとってアゲンストになっていただろう。

 

 昨夜の夕食を終えて部屋に戻ったら、七冠ストッパーの深浦王位(渡辺防衛を予想していることは三回目のエントリー「(3) F1と装甲車」で触れた)から、こんなメールが届いていた。

 『封じ手を見て、直感は渡辺勝ちです。ただ何か気になるんですね。羽生さんの動向が(パリでの単独行動など)。初戦の結果はかなり大きいのですが、シリーズとしてはどちらが勝つかわからなくなって来たというのが率直な感想です。「堅さと攻め」に対する羽生さんの作戦が「こう来るのか」と意表を突かれましたし、どんな作戦でも指しこなせる、という自信も感じさせる序盤戦と感じました。2日目は渡辺竜王の攻めを羽生さんがどういなして行くか、という展開でしょうね。今家族の寝息を聞きながらメールしてます(午前6時頃)もう1冠はここに居ます(笑)今日はディズニーシーで遊びますが、竜王戦中継は手離せないでしょうね。プライベートは思い切り遊びたい自分としては珍しい事です。』

 そう、将棋界七冠のうち、六冠(羽生善治、渡辺明、佐藤康光)はここパリにいて、「もう1冠はここに居ます」の深浦康市だけが、日本の「ディズニーシー」の携帯画面から、この対局を凝視している。そう、七冠のうち「羽生世代」以外が持つタイトルは、渡辺の竜王位たった一つなのだ。

 深浦さんの封じ手時点でのこの感想を読んだ米長会長は、

 『君も将棋がわかるようになったね。』

 という一行のメールを深浦さんに出していた。

 

 当然とは言え、予想通り封じ手は△24同歩であった。

 羽生名人は、対局室に8時53分頃入室。一方の渡辺竜王は、それから約5分遅れての入室であった。両対局者が対局室に入り、室内の緊張感が一挙に高まる。報道スタッフはもとより、、そして一般見学の方にも、そのキリリと引き締まった空気を肌で感じることができたであろう。

1dsc_0255 2dsc_0255 3dsc_0255

 昨日は午後6時定刻に、羽生名人が次の一手を封じた。その1時間半後の午後7時半に対局者・関係者一同が再集合し、ホテル内のレストランで夕食をとることとなった。

 二日制タイトル戦の一日目の夕食は、両対局者を交え、関係者一同でとる。

 むろん皆で和気あいあいと食事をするわけだが、やはり戦っているさなかの二人が言葉をいっさい交わさないですむように、グループを大きく二つに分ける。昨夜は、中央に立会人、副立会人の、米長さんと佐藤さんが並んですわり、その両脇、米長さんの横に渡辺さんが、佐藤さんの横に羽生さんがそれぞれすわり、その周囲に適宜、関係者が席をとって歓談した。つまり渡辺グループと羽生グループに分かれ、二つの座が開かれるわけだ。

 私が加わったのは、羽生さん、佐藤さんを中心とした集まりであった。

 私はこれまでに二度、佐藤・羽生戦を観戦している(2005年と2008年の棋聖戦)。そのときは、今日の渡辺・羽生の両対局者が別グループに分けられているのと同様、佐藤さんと羽生さんは、それぞれ別々の座を開いていた。

 だからそのときは感じることができなかったわけだが、羽生さんと佐藤さんは、心から羨ましくなるほど、仲が良かった。余人にはうかがい知れないほど深い深い信頼関係が、二人の間にはある。そのことが言葉の外側から強く伝わってきた。

 「羽生世代」という言葉がある。現在の将棋界をほぼ制覇している羽生さん、佐藤さん、森内さんたちはほとんど同い年で、子供の頃から競争し、切磋琢磨し、自分を磨き続けてきた。羽生さんがいちばん目立っているけれど、皆で天下を取ったのだと言っていい。だから「羽生世代」については、すでに多くの人がたくさんのことを書いている。

 しかし、私がこれまで読んだ羽生世代についての文章でいちばん感動したのは、羽生世代より三、四歳若い行方尚史八段が、13年前に、19歳の時に書いた文章だ(ちなみに私は、将棋の本や雑誌を読んで感動した部分があると必ず筆写して、ネットの「あちら側」に置いてある。だから必要なときにすぐ引用ができる。たとえそれがパリからであっても)。

 『羽生名人、佐藤康竜王ら「57年組」の存在は、僕に重たくのしかかってくる。ただ、漠然と奨励会生活を過ごした僕と比べて、奨励会入会時あるいはそれより前からのライバル関係を、十年以上続けている彼らは、考えられる上で最良の環境に、あらかじめ祝福されていた。

 一種の桃源郷に自意識が芽生える前から身をおいた彼らは、夢想におぼれることもなくリアルな少年時代を過ごすことに成功するのだ。ほしいものは、すでに分かっている。その道のりを歩むことによって、大抵の大人よりも面白い人生を生きることになるだろう。うぬぼれがちな少年ならば、ここで鼻にかかって達観してしまうのだが、彼らはさきに自らを律することによってそれを防いだ。うぬぼれると、すぐに置いてけぼりにあったから。将棋に乗っとられ、なんだか体が重たくなっていき、街の空気が肌に合わなくなったが、奨励会で競い合うことが楽しかったから、日常なんてどうでも良かった。普通であることに、軽蔑にも似たあこがれも持ったが、「ジャンプ」を買って読むなんてことは想像もつかないことだった。

 こうして彼らは棋士になり、次第に勢力を拡げ、ブランド名までつけられた。』(将棋世界95年1月号)

 
「「ジャンプ」を買って読むなんてことは想像もつかない」少年時代を共にした羽生と佐藤の二人だけに通ずる何かを、パリのレストランで垣間見ることができたことは、僥倖であった。百聞は一見にしかず。こればかりは、どれだけの言葉を尽くしても伝えることはできまい。

 

 ところで、二日間の対局中ずっと正座を崩さぬ決意で本局の記録係をつとめる中村太地四段(20歳)は、渡辺明竜王よりも四年若い。中村は、渡辺竜王に深い敬意を抱いているに違いないが、行方が19歳のときに「羽生世代の分厚さ」に抱いていた複雑な気持ちを、渡辺をはじめとする先輩たちに対しては持っていないのではないか。渡辺世代と言うべき分厚さは存在せず、渡辺が孤独だからだ。

 四日前、ノートルダム大聖堂前の広場を歩きながら、私は中村四段に「あなたもいつかタイトル戦に出てね」と言った。

 「はい、できるだけ早く出たいです」

 中村に屈託はなかった。羽生世代の次は渡辺、と決まったものでもないのだ。

 そういう「下の世代との見えない戦い」も含め、このたびの竜王戦という勝負は、渡辺にとって「永世竜王」という称号以上に、とてつもなく大きなものなのである。

 

R0010437 ――――――――――――――――――――
写真は一日目、羽生挑戦者の封じ手を待っているところ。