2008年10月19日 (日)

【梅田望夫観戦記】 (7) 羽生世代の信頼関係

 昨日は午後6時定刻に、羽生名人が次の一手を封じた。その1時間半後の午後7時半に対局者・関係者一同が再集合し、ホテル内のレストランで夕食をとることとなった。

 二日制タイトル戦の一日目の夕食は、両対局者を交え、関係者一同でとる。

 むろん皆で和気あいあいと食事をするわけだが、やはり戦っているさなかの二人が言葉をいっさい交わさないですむように、グループを大きく二つに分ける。昨夜は、中央に立会人、副立会人の、米長さんと佐藤さんが並んですわり、その両脇、米長さんの横に渡辺さんが、佐藤さんの横に羽生さんがそれぞれすわり、その周囲に適宜、関係者が席をとって歓談した。つまり渡辺グループと羽生グループに分かれ、二つの座が開かれるわけだ。

 私が加わったのは、羽生さん、佐藤さんを中心とした集まりであった。

 私はこれまでに二度、佐藤・羽生戦を観戦している(2005年と2008年の棋聖戦)。そのときは、今日の渡辺・羽生の両対局者が別グループに分けられているのと同様、佐藤さんと羽生さんは、それぞれ別々の座を開いていた。

 だからそのときは感じることができなかったわけだが、羽生さんと佐藤さんは、心から羨ましくなるほど、仲が良かった。余人にはうかがい知れないほど深い深い信頼関係が、二人の間にはある。そのことが言葉の外側から強く伝わってきた。

 「羽生世代」という言葉がある。現在の将棋界をほぼ制覇している羽生さん、佐藤さん、森内さんたちはほとんど同い年で、子供の頃から競争し、切磋琢磨し、自分を磨き続けてきた。羽生さんがいちばん目立っているけれど、皆で天下を取ったのだと言っていい。だから「羽生世代」については、すでに多くの人がたくさんのことを書いている。

 しかし、私がこれまで読んだ羽生世代についての文章でいちばん感動したのは、羽生世代より三、四歳若い行方尚史八段が、13年前に、19歳の時に書いた文章だ(ちなみに私は、将棋の本や雑誌を読んで感動した部分があると必ず筆写して、ネットの「あちら側」に置いてある。だから必要なときにすぐ引用ができる。たとえそれがパリからであっても)。

 『羽生名人、佐藤康竜王ら「57年組」の存在は、僕に重たくのしかかってくる。ただ、漠然と奨励会生活を過ごした僕と比べて、奨励会入会時あるいはそれより前からのライバル関係を、十年以上続けている彼らは、考えられる上で最良の環境に、あらかじめ祝福されていた。

 一種の桃源郷に自意識が芽生える前から身をおいた彼らは、夢想におぼれることもなくリアルな少年時代を過ごすことに成功するのだ。ほしいものは、すでに分かっている。その道のりを歩むことによって、大抵の大人よりも面白い人生を生きることになるだろう。うぬぼれがちな少年ならば、ここで鼻にかかって達観してしまうのだが、彼らはさきに自らを律することによってそれを防いだ。うぬぼれると、すぐに置いてけぼりにあったから。将棋に乗っとられ、なんだか体が重たくなっていき、街の空気が肌に合わなくなったが、奨励会で競い合うことが楽しかったから、日常なんてどうでも良かった。普通であることに、軽蔑にも似たあこがれも持ったが、「ジャンプ」を買って読むなんてことは想像もつかないことだった。

 こうして彼らは棋士になり、次第に勢力を拡げ、ブランド名までつけられた。』(将棋世界95年1月号)

 
「「ジャンプ」を買って読むなんてことは想像もつかない」少年時代を共にした羽生と佐藤の二人だけに通ずる何かを、パリのレストランで垣間見ることができたことは、僥倖であった。百聞は一見にしかず。こればかりは、どれだけの言葉を尽くしても伝えることはできまい。

 

 ところで、二日間の対局中ずっと正座を崩さぬ決意で本局の記録係をつとめる中村太地四段(20歳)は、渡辺明竜王よりも四年若い。中村は、渡辺竜王に深い敬意を抱いているに違いないが、行方が19歳のときに「羽生世代の分厚さ」に抱いていた複雑な気持ちを、渡辺をはじめとする先輩たちに対しては持っていないのではないか。渡辺世代と言うべき分厚さは存在せず、渡辺が孤独だからだ。

 四日前、ノートルダム大聖堂前の広場を歩きながら、私は中村四段に「あなたもいつかタイトル戦に出てね」と言った。

 「はい、できるだけ早く出たいです」

 中村に屈託はなかった。羽生世代の次は渡辺、と決まったものでもないのだ。

 そういう「下の世代との見えない戦い」も含め、このたびの竜王戦という勝負は、渡辺にとって「永世竜王」という称号以上に、とてつもなく大きなものなのである。

 

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写真は一日目、羽生挑戦者の封じ手を待っているところ。