午後4時45分、終局間近との情報で、私は対局室に入った。そして午後6時15分の終局まで、あまりの緊迫感に嘔吐を催したために10分だけ控え室に戻ったが、それ以外はずっと両対局者を見つめていた。
「負けました」
渡辺竜王が投了する前の数手、「△6七銀で勝利を確信した」と対局後に語った羽生名人のそれから三手の指し手は、最後までふるえることはなかった。
ずっとリアルタイムでお伝えしてきたように、控え室では「かなりの名局だ」と感動が渦巻いていた。にもかかわらず、感想戦での渡辺竜王は、「ぜんぜんダメな将棋だった」と反省ばかりを繰り返したのだ。
それに私は驚愕した。羽生名人は、渡辺をいたわるような雰囲気を醸し出し「そんなことはないでしょ、こうやったらどうだった?」といった発言を、感想戦が終わるまで繰り返した。
厳しい勝負を終えたわずか数分後に、羽生は「やさしい先輩」という雰囲気になった。
一言で言えば、渡辺竜王は、
「(12) 佐藤康光棋王、現代将棋を語る」の中で、佐藤棋王が言っていた感想
『「いや、△6四角そのものよりも、△6六歩と取り込んで、△6七歩成って、それで△6九角のところ、ですかね。それが間に合うって感覚はちょっとないですね。それが感心するところです。(中略) でも、『(6七歩を)成って角(6九角)で大変』という感覚は、ちょっと持ち合わせてる人は少ないような気がします。」』
と、ほぼ同じ主旨の感想を述べた。勢いよく▲2三角と打った渡辺の攻めに対する羽生の構想が、渡辺にはまったく思いもよらないものだったらしいのだ。
『本譜の展開は意外でした。予想外で困りました。△6四角を打たれて、あまりにも手がないので唖然としました。なんかあると思ったんですけど、ここで手がない。弱りましたね。大局観が悪かったです。金打って(▲4三金)、角打たれて(△6四角)、何かあるだろうと思ったのに……。打たれてみて読んでみて、何もないんじゃひどいですね。打たれて困っているようじゃダメですね。ちゃんと読んでから指さなくちゃね。△6七歩成のときにもう悪いっていうのは、そのとき気づいていないんですよ。そこで気づいているくらいなら▲2三角なんて打たなかったわけだけど。▲2三角からの攻めに対してどういう攻め合いになるんだろうな、と思っていたんですよ。でも、6七歩を成って角(6九角)から徹底的に受けにまわられて全然ダメだなんて、考えもしなかったんですよ。』
渡辺の切れ切れの発言をまとめるとこうなる。そして、感想戦の最後にさらにもう一度、渡辺は
『でも何回指しても、角打っちゃう(▲2三角)なあ。』
とつぶやいた。
立会人の米長会長は「二枚がえになって飛車が成ればふつうはいいのにねえ」と羽生に問うたが、羽生は「ふつうはそうですけどね……」と答えた。
総括すれば、この将棋は、渡辺竜王が「二枚がえに成功してさらに飛車を成り込む」という望外の展開になったはずだったのに、「その展開で、必ずしも先手有利とは言えない」という大局観を持っていたのが、羽生名人ただ一人だった、ということなのだ。
羽生は本局にのぞんで「パリらしく芸術ともいえる将棋を指したい」と抱負を述べたが、本局は、まさに羽生一人が作り上げた芸術だったと言えるのかもしれない。