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2008年10月18日 (土)

 羽生挑戦者が△7四歩と指したところで、私は対局室に入ったが、渡辺竜王はこんこんと考え続け、なかなか次の一手を指さない。十分、二十分、三十分と、時間だけが過ぎていき、二人の姿に大きな変化はない。

 ときおり深いため息をつき、二人は視線を盤面から虚空に転換する。

 静寂な対局室の中に入って、長考する棋士たちの周囲を流れる時間の中に身をおくという経験は、現代社会のどこを流れる時間とも異なる。

 渡辺竜王は41分考えて▲2五歩(21手目)。羽生挑戦者は△3三銀(22手目)。そして竜王は棒銀の方針を示す▲2七銀(23手目)。そして羽生挑戦者は△7三桂(24手目)。

 すでに対局開始から三時間が経過しようとしている。濃密な時間の流れの中で、二人は、それぞれ12回ずつしか手を指していない。

 

 将棋というゲームは一手の価値がおそろしく重い。

 そんなことを改めて考えたのは、深浦王位と次のようなやり取りをしたこともあった。

 羽生七冠ロードをストップして王位を防衛した深浦王位は、このひと夏をかけて羽生四冠と死闘を演じた。読売新聞紙上座談会で「竜王戦は4勝2敗で渡辺竜王の防衛」を予想した深浦さんに、このたびの竜王戦の見どころについて、また対局者二人の違いについて、質問メールを送ってみたのだ。

 深浦王位からの返答メールは、こんなものだった。

 『羽生さんと言えども、振り回されるかも知れません。なので作戦に注目してます。渡辺さんの「堅さと攻め」にどう対抗するのか。ただ渡辺さんの方が、序中盤で離されないように、という対策の方が深刻でしょうね。可能なら昨年の渡辺佐藤戦の4局目を見て戴きたいのですが、佐藤さんの角交換向かい飛車に渡辺さんが淡々と穴熊に囲った将棋です。一手でも得して、中終盤へのスピード感に繋げたい、と考える羽生世代に対して、渡辺さんは序盤に65角と打たずに自分の将棋(穴熊)を貫きました。序盤ですと、この1局面に象徴されてますね。局面によってはF1と装甲車ぐらいに違うと感じる事もあります。正直、始まってみないと判りませんが、久々に自分以外でワクワクする将棋ですね。 深浦康市』

 羽生さんがF1で、渡辺さんが装甲車かあ。

 深浦さんが語る「昨年の渡辺佐藤戦」について調べてみたら、深浦さんと渡辺さんが将棋世界08年6月号で対話している記録があった。

 『深浦 … 後手から角交換して向かい飛車。▲6五角を打つなら打ってみろという作戦ですが、それに対して渡辺さんが我関せずという態度で淡々と穴熊に組んだのが印象的だった。後手としてはめいっぱい頑張った作戦だけど、頑張ってこの程度の分かれになるんじゃつらい。手損振り飛車が成立するかどうか、昨年のテーマの1つだったけど、この将棋以来、後手からの角交換振り飛車は減ることになったと思う。
 渡辺 これねえ、1手で△2二飛と回られるのはしゃくなんだけど、怒って▲6五角打つほどじゃないと思ったんだ。後手としては▲6五角打たれるリスクもあるし、この将棋のようにじっくり穴熊に組まれるリスクもある。それだけリスクを負うなら別の将棋にしたほうがいいというのが、最近の後手の傾向ですね。』

 盤面の詳細はともかく、わずか一手の指し方の違いという盤上でのやり取りから、二人の将棋を「F1と装甲車ぐらいに違う」と感ずるという深浦さんの感性から、たとえば野球のようなスポーツにおける一つ一つの動き(投球やバットスイングなど)に比べて、将棋の一手には破格の重みがあるものなんだなと思ったのだ。

 

 ところで「野球術」という本がある。熱狂的野球ファンで政治評論家のジョージ・ウィルが、四人の野球知性に密着取材して現代野球の神髄を解き明かした不朽の名著である。その中にこんな言葉がある。

 『ほんとうの野球ファン、すなわち深い知識と豊かな想像力と鋭い観察力にめぐまれた野球ファンになるのは、そう容易なことではない。ぼんやりと野球見物するファンがナイフで木を削っている人々だとしたら、ほんとうの野球ファンとは、石を彫り刻んでいる存在に近い。石を彫り刻むという行為は、彫る人の心に、たえずなにかを問いかける。そもそも、ゲームを見にいく際に、「テイク・イン」という言葉の使われるスポーツが野球以外にあるだろうか? 野球の場合、われわれは「明日の晩の試合、テイク・インしようぜ」などという。ほかの競技だと、こんな言い方はしない。これは野球特有の言いまわしだ。野球というスポーツには摂取するべきものがたっぷりある。摂取したものを吸収(テイク・イン)する時間もふんだんにある(といっても、ありあまっているわけではない)。だからこそ、こういう言い方が生まれたのかもしれない。』

 長考する棋士を眺めながら、序中盤の難所の局面での次の一手の意味を考えることは面白い。ただそれは、将棋の強い人たちに許された特権的な楽しみである。

 しかし将棋を観る楽しみはそこにだけあるのではない。必ずしも将棋が強くなくても、「深い知識と豊かな想像力と鋭い観察力にめぐまれた将棋ファン」になることができるのではないだろうか。

 無限に広がっていく将棋のさまを眺めながら、将棋についてかつて語られた豊穣な言葉を思い起して考えたり、別の芸術の世界を連想してその共通するところを抽出したり、そこから得られたエッセンスを現代を生きる糧にしようとしたり、私たちが一局の将棋から吸収(テイク・イン)できることはたくさんある。

 ジョージ・ウィルにおける野球という言葉を将棋に置き換えたら、こうなる。

 『ほんとうの将棋ファンとは、石を彫り刻んでいる存在に近い。石を彫り刻むという行為は、彫る人の心に、たえずなにかを問いかける。芸術かつ頭脳スポーツである将棋には摂取するべきものがたっぷりある。摂取したものを吸収(テイク・イン)する時間もふんだんにある(といっても、ありあまっているわけではない)。』

 なにしろ野球と違って、二日間にわたって、一局の将棋が指されるのだ。「テイク・イン」という言葉は、野球以上に将棋にフィットするのである。

 

 ちなみに、今日明日の対局にのぞむ羽生さんの抱負は「パリらしく芸術ともいえる将棋を指したい」である。


 

 盤面は、一手損角換わりの最新形で進んでいる。

 二日制、持ち時間八時間の将棋は、一日制、持ち時間四時間のタイトル戦に比べて、時間がゆったりと流れている。

 後手・羽生挑戦者が選んだ一手損角換わりの将棋を、控え室の米長さんは「一手損角換わりはみんなで研究した結果、先手有利という結論になるだろう。しかし、それは私が生きている間に解明されるかはわからない」と予言する。果たして現代将棋には、米長の予言を超える革命的な変化が訪れようとしているのだろうか。それはまだ誰にもわかっていない。両対局者をはじめとした現代トッププロたちが、日夜、その解明にいそしんでいるのである。そのうちの一人である佐藤康光さんは「僕が生きている間にも解明されないと思いますよ。僕は後手番持つのも大好きなんですよね(笑)。」と言う。

 『羽生名人は常に安定した力を出してくると思う。自分がだらしないとシリーズが盛り上がりません。自分の出来次第だが、力を十分に発揮したい』

 「週刊将棋」10月15日号で決意をこう語る渡辺明竜王について、将棋にあまり詳しくない方にも興味を持っていただけるよう、ここで少し詳しくご紹介してみたい。

 

 羽生挑戦者を迎え撃つ渡辺明竜王は、羽生との世代対決を戦うべく宿命づけられた天才である。

 私も含め将棋ファンが初めて渡辺明という存在を知ったのは、1995年春、彼がまだわずか10歳のときのことである。それは河口俊彦七段が「将棋世界」誌人気連載「新対局日誌」(1995年4月18日の項)で、こう書いたからだ。

 『将棋界は十年に一度の割り合いで天才が現れる。みなさんご存知だろうか。名を挙げれば、加藤一二三、米長邦雄と中原誠、谷川浩司、羽生善治である。その流れからすると、羽生が四段でデビューしてから約九年。そろそろ大天才が現れる頃だと思っていた。

 歴史は誤らない。ちゃんと天才が現れたのである。

 渡邊明君といい、昨年奨励会に6級で入った。そして半年あまりたった今は、すでに2級である。年は小学校五年で十歳。(中略)

 用事にかこつけ、銀座に出て、「萬久満」に寄ると、中原、佐藤(義)、小倉の面々がいた。

 結局話し込んで、帰りは午前様になってしまったが、そこで例の渡邊少年の話をすると、中原さんは「ほう」と眼を輝かせ「その子に羽生君はやられるんだ」すかさず言った。こういう一言は書き留めておく値打ちがある。』

 これは一部では有名なエピソードだが、有名なだけに正確を期したいと思い、出発前に将棋世界のバックナンバーを探して当該個所を筆写してきた。彼はその頃まだ「渡邊」という姓を使っていたようである。

 渡辺は2000年、中学校卒業前に四段となった。過去に中学校卒業前に四段となった棋士は、加藤(一)、谷川、羽生の三人しかおらず、渡辺が四人目になった。河口がこの文章を書いた5年後のことだ。

 渡辺が「その子に羽生君はやられるんだ」という中原の予言を意識せずに成長したとは考えにくい。世代対決の申し子を自覚しながら四段になった15歳の渡辺は、当然のことながら自信満々だった。

 『放っておいても、自然にやっていれば、25歳くらいでトッププロになると思っていたんです、15歳のときは。』(将棋世界06年11月号)

 と渡辺は述懐するが、プロになって3年目に佐藤康光王将(当時)とぶつかり、羽生世代の強さを体で知り、強い危機感を抱くことになる。

 『3年目に佐藤さんと指して、「放っておいたらまずい」と思った。ちょっと模様がいい将棋だったんですが、勝ちきれなかった。あとから見るときわどい将棋であるんですけど、完全に読み負けている。

 終盤はほとんど読みにない手ばかり指されましたから。たしかに自分も多少は強くなるでしょうが、上も強くなりますから、25歳になっても、この関係はあまり変わっていないだろうと思った。佐藤さんと指して危機感を持ったのは大きかったと思います。』(同)

 と語っている。このインタビューの中では特定していないが、おそらく2002年5月29日の王座戦本戦で佐藤に敗れた将棋のことを言っているのだろう。危機感を持って精進した渡辺は、まもなく期待通りに頭角を現す。その翌年の王座戦本戦トーナメントで優勝し、羽生王座に挑戦することになった。このタイトル初挑戦が19歳のとき、2003年夏のことである。タイトルは獲得できなかったけれど、羽生をギリギリまで追いつめた五年前の王座戦は記憶に新しい。その最終局の観戦記を担当した青野照市九段は、

 『それにしても、終盤での羽生の指の震え方は異様だった。指が震えて駒が持てず、何回も手を引っ込める場面がモニターに映ったのである。初めて見る光景に、あの羽生にして今回の防衛戦が、いかに緊張していたかがうかがわれた。』(将棋世界03年12月号)

 と書いたが、羽生が大勝負で勝ちを確信したときに指が震えるようになったのは、渡辺とのこの王座戦最終局が初めてだった。

 そして20歳のとき(2004年12月)渡辺は、森内俊之竜王を下して初タイトルを獲得。竜王位に就いた。以来、三年連続で防衛し「五連覇で永世竜王」に王手をかけた。そして、竜王挑戦を決め「通算七期で永世竜王」に王手をかけた羽生挑戦者を、このたび迎え撃つことになったわけである。

 

 私が渡辺さんと個人的に親しくなったのは、彼が一般読者向けに初めて書いた著書「頭脳勝負」(ちくま新書)を出したときに、本の帯に推薦の言葉を書いたことがきっかけだった。

 2007年11月、ちょうど同じ月のちくま新書の新刊の二冊として、私の「ウェブ時代をゆく」と渡辺さんの「頭脳勝負」が一緒に店頭並ぶこともあって依頼があり、喜んで引き受けたのだった。

 そして彼の著書「頭脳勝負」をゲラ段階で読んで、私は彼の使命感と危機感に打たれた。そして羽生さんとの14歳の年齢差は、こういうところに現れるのかと目を瞠った。

 一言でいえば、渡辺さんは、「将棋が強ければ飯が食える」という棋士という職業の前提が、自分の時代には「放っておいたら」崩れるかもしれないという危機感を抱き、その厳しい現実に真剣に立ち向かう使命感と責任感を持った若きリーダーなのである。

 たとえば、一早くブログを書きはじめ、ファンに向けて棋士の日常を公開し、勝った将棋も負けた将棋も、翌日にはファンに向けて自ら本音を語って解説をするという画期的なことを、彼は始めた。将棋の世界を、より広いファン層に対して、身近に感じてほしいという彼の意志のあらわれである。
「頭脳勝負」の「はじめに」で彼はこう書いている。

 『棋士は将棋を指すことによってお金をもらっていますが、これはプロが指す将棋の価値を認めてくれるファンの方がいるからです。スポーツ等と同じで、見てくれる人がいなければ成り立ちません。

 ただ、将棋の場合「難しいんでしょ」「専門的な知識がないと見てもわからないんでしょ」とスポーツに比べて、敷居が高いと感じている方が多いように思います。確かに、将棋は難しいゲームです。しかし、それを楽しむのはちっとも難しくないのです。「なんとなく難しそう」というイメージで我々のプレーがあまり見られていないとしたら、残念なこと。というわけで、将棋の魅力を多くの人に伝えたい、と思って本書を書くことにしました。』

 誤解を恐れずにいえば、これまでの将棋界は、「将棋が好きなら、将棋を指してください。そして強くなってください。将棋の強さで、将棋への愛をはかりますよ」というところが強かったと思う。

 トーナメント・プロの世界はもちろんそれでいい。しかしメディアやアマチュアやファンも含めた、将棋に関わるすべての人たちの間に「将棋の強さという尺度だけで成立したピラミッド構造」がなんとなく存在し、それが渡辺さんの言う「敷居が高いと感じている方が多い」という状況を作り出してきた要因の一つなのではないかと思う。

 将棋の未来を切り開いていくためには、「指さない将棋ファン」「将棋は弱くても、観て楽しめる将棋ファン」を増やさなくてはいけない。渡辺さんはそう考えて「頭脳勝負」という本を書いた。さらにこの「頭脳勝負」という本は、対局者の心理戦の面白さを描き、「人間が人間と戦う将棋の面白さ」とは何かを突き詰めたもので、人間と人間が戦う最高峰の将棋の魅力は将棋のことをあまりわからない人でも十分に楽しめるものなのだという渡辺さんの願いがあらわれていた。こういう本を23歳という若さで書かなければならなかった渡辺さんに、私は、羽生世代のトッププロとは一味違った孤独を垣間見た。彼が「人間が人間と戦う将棋の面白さ」をあえて突き詰め、それを語る理由は、コンピュータ将棋が日に日に強くなっているという厳しい現実があるからだ。

 2007年3月、コンピュータ将棋「ボナンザ」との真剣勝負も、彼は受けて立った。「勝って当たり前、負けたらトッププロの面目を失う」という、失うものばかりの大きい割の合わない勝負を、彼は受けた。

 『 現在の将棋界を考えて、年齢的に見てぼくが一番適任かなと。三十代、四十代の方だと過去の実績が邪魔して引き受けにくいと思います。自分もこれからどのぐらい実績を積めるかどうかわからないけれど、やるなら今だと思って決めました。(中略)

 コンピュータ対人間の対局は、これからの将棋界の重要なコンテンツになっていくと思う。こういうちゃんとした舞台でやるのは初めてなので、その第一歩として、とにかくなんでもいいから勝ちたい(笑)。あんまり簡単に超えられてしまうとコンテンツとして成り立たなくなる。超えるか超えないかという状況が少しでも長く続いた方がやる方もファンも面白いと思います。』(将棋世界07年4月号)

 ボナンザ戦を前にこう語った渡辺さんを、私は立派だなと思った。果たして彼はボナンザに勝った。そしてボナンザ開発者との共著の中でこんなふうに語った。

 『人間代表が敗れる日が来るかもしれない。たとえそうだとしてもその日を1日でも先延ばしできるよう、自分自身の技術を磨いておかなければならないと私は思っている。

 ボナンザの実力は一発勝負ならプロに勝つ可能性が十分にあるレベルには達している。もし仮に竜王戦のランキング戦の一番下位である6組に参加する機会を得ることができたらどうなるか。毎年戦っていれば何局かに1回くらいはプロに勝ててもおかしくない。同じように他の公式戦もすべて参加することが許されて、年間30局くらい戦えば何人かはたぶん負かされるだろう。

 ただし、それでそのまま人間を超えたということにならない。コンピュータに厳しい表現をすれば、竜王戦6組で優勝争いにからむ戦績を残せるようになって、はじめてプロレベルに並んだといえる。6組の参加者が勝ち抜いて私の持つ竜王位に挑戦するには十数連勝はしなければならないのだ。

 コンピュータは確かに強くなった。でもトッププロに迫るにはまだかなりの時間がかかると私は予想している。』(「ボナンザVS勝負脳」保木邦仁、渡辺明共著 角川書店)

 人間の最高峰がコンピュータに敗れる日が来るとき、果たして、棋士という職業はどう変わるのか。

 それは、ベテラン棋士たちよりもうんと長期的な視点で人生を考えていかなければならない若手棋士にとっては死活問題である。そしてだからこそ自分たちの世代は、コンピュータとの戦いから絶対に逃げてはいけないのだと、渡辺さんは腹をくくっている。またコンピュータ・ソフト開発者に対し、トッププロという相手の手の内を研究し(むろんトッププロも真剣にソフトの手の内を研究する)、ソフトを改良して頂点を目指す真剣勝負を、自分たちと本気でやり続ける気概はあるのか、あるのなら俺は受けて立つぞ、と宣言しているのだとも読める。一回勝負で勝つとか負けるの話ではなく、実力紙一重の将棋の天才たち(これまでは人間だけ)がその頂点を決めるシステムの中にコンピュータ・ソフトも入って、本当に最後まで戦い続ける気があるのかと、渡辺さんは問うているのだ。そう問い、そう問うたことの責任を全うすることが、これからの棋界を背負う第一人者の仕事だと認識しているのである。

 本当に素晴らしい人が、羽生さんの次の世代に現れてくれた。

 私は渡辺さんについて、心からそう思うのだ。

 

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 9月15日にリーマン・ブラザーズの破綻が発表されて以来、サブプライムローンに端を発した金融界の膿が一気に噴き出し、世界金融危機に陥り、世界中がその対応に追われている。これからしばらくは、実体経済の面でもとても厳しい時代が、世界全体で続いていくのであろう。

 

 思えば、14年前にアメリカ(シリコンバレー)に移住してから、その半分にあたる「後半の7年間」は、2001年9月11日の同時多発テロを皮切りに、アフガニスタン、イラクで始まった戦争、そしてこのたびの世界金融危機と、ビジネスの最前線でその大波をかぶりながら生きざるを得ない毎日だった。14年前にシリコンバレーに渡ったときに思い描いていた明るい未来のイメージとはまったく違う思いがけないことが、とにかく次から次へと起こる中、何とか知恵を絞ってサバイバルしようと必死にやってきた。

 そんな中で学んだ大切なことがある。

 そういう、個人の手に負えないほど大きなことが周囲で起きたときに、私たち一人ひとりにできることはそれほど多くないということである。もちろんサバイバルのためにベストを尽くすのは大切だ。でも、そんなことばかりを365日24時間考え続けながら生きることは、私たちには到底できないのである。

 テロが起きても、戦争が始まっても、世界経済が音を立てて崩れようとも、私たちは、毎日の生活の潤いや楽しみを求めて、音楽を聴いたり、小説を読んだり、野球を観たりしながら、精神のバランスをとって、したたかに生きていかなければならないのだ。文化は、その時代が厳しくなればなるほど、人々の日常に潤いをもたらす貴重な役割を果たすものなのである。

 将棋は、日本が世界に誇るべき素晴らしい文化である。そして棋士はその素晴らしい文化を体現した、日本が世界に誇るべき人々である。将棋を指したり、将棋を観たり、将棋や棋士について語ったりすることは、日本人に与えられた素晴らしい贈り物である。そしてその贈り物を、世界中の人たちと共有することが、将棋のグローバル化ということである。

 グローバル経済が、そして地球全体がたくさんの難題を抱えて混迷する今、第21期竜王戦第一局が、しかも将棋ファン待望の渡辺竜王と羽生名人との「永世竜王を賭けての対決」がパリで開催されることは、現代に重要な「何か」を象徴しているように、私には思えた。渡辺羽生の戦いの傍らに身を置いて、その「何か」を見届けてみたかった。そんなわけで、仕事を束の間休み、私はシリコンバレーからパリにやってきた。そして今、対局者の二人、若き竜王・渡辺明と挑戦者・羽生善治四冠、そして立会人兼解説者として米長邦雄将棋連盟会長と佐藤康光棋王。稀代の名棋士たちが、ここパリに集結した。思えば、先週末のパリでは、ユーロ圏(15ヵ国)の緊急首脳会議がエリゼ宮で開かれ、銀行間取引の政府保証や金融機関への資本注入など金融危機対策のための行動計画が発表され、先週の最悪の市場状況にいったんは歯止めをかけることになった。

 この世界金融危機のさなかに、将棋を観るために、パリに向かう。

 そんな不思議な旅の出発が近づくにつれて先週から、私の心の中では、なぜか日に日に緊張感が高まっていった。

 ふと思い出すのは、7年前の同時多発テロ直後のこと。まだ多くの日本企業が海外出張禁止令を出していた頃、アメリカでは「予定通りの日常を何の変わりもなく生きることこそが、個人のレベルにできるテロとの戦いなのだ」という気分が横溢していた。私もそれに共感し、予定していた日本出張をキャンセルしなかった。しかしさすがにその日ばかりは、飛行機がサンフランシスコ空港からふっと浮揚した瞬間、ああこれが最期かもしれないんだな、という思いが頭をよぎった。

 今回のパリへの旅には、むろんそういう物理的恐怖はなかった。でも「予定通りの日常を何の変わりもなく生きる」ことで、このたぴの経済危機と個人のレベルで折り合いをつけていこうという気持ちは、あのときと共通している。どうもそこからくる緊張感のようだった。

 

 羽生さんと初めて会ったのは、2001年7月5日のことだった。翌6日に箱根で行われる第72期棋聖戦第三局(羽生棋聖対郷田挑戦者)を、私が観戦することになったからだ。

 その二ヶ月前、私はパリで、「欧州の真の力強さとは何か」(中央公論01年7月号)というテーマの対談を、今北純一さんとした。その冒頭で、私はこんなことを話した。

 『特にここ数年、ドッグイヤー(七倍速)的な時間が流れるシリコンバレーで、かなり激しく仕事をしてきたせいかもしれないのですが、昨年11月、パリ左岸のビュシー通りからジャコブ通りへと歩いていたとき、突然強い衝撃を受けたのです。あとから言葉で無理に表現すれば「この街では正しいことが正しく行なわれている」という感覚でした。それで半年も置かずに、無理に休暇を取って、またパリにやってきました。 』

 今北さんと私は、アメリカの冒険主義的競争社会の面白さ、激しさ、厳しさと対比する形で、成熟したヨーロッパに秘められた力強さ、とりわけ世の中でどんなことが起ころうとも確固として変わらぬパリの街並みや人々の魅力について語り合った。

 今北さんは、羽生さんとの共著「定跡からビジョンへ」(文藝春秋)も著しているパリ在住のビジネス・コンサルタントで、羽生さんとは旧知の間柄の人である(羽生今北の初対面は、14年前の、やはりパリでの竜王戦だったそうだ)。

 というわけで、新幹線のホームでの羽生さんとの初対面では「はじめまして、梅田です。いちばん新しい「中央公論」誌上で今北純一さんと対談していた相手なのですが・・・」と挨拶した。むろん羽生さんが対談を読んでいることなどは全く期待していなかったが、今北さんという共通の友人の存在が何か話のきっかけになればと思ったのだ。

 案に相違して、羽生さんの第一声は、

 「ああ、ああ、はい、はい、読みました。どうも、はじめまして」

 だった。激しい戦いの合間に、そんなものにまで目を通しているのかと、とても驚いたのをよく覚えている。

 以来、羽生さんとの付き合いは7年以上になるのだが、出会いのときからして「正しいことが正しく行なわれている」パリという街の話題だったこともあり、ときおり「次にパリでタイトル戦があったら必ず観にいきますね」みたいな約束を、羽生さんが対局者であることを暗黙の前提に、確認するようになっていた。

 そして今年の6月12日、棋聖戦第一局の観戦記を書いた翌朝、燕三条から東京に帰る新幹線の中で、羽生さんが突然、私にこう言ったのだ。

 「今年の竜王戦は、パリでやるんですよ。」

 羽生さんが名人位を奪取して永世名人の資格を獲得する5日前のことである。

 私はふと答に窮し「ああ、そうなんですか」と、少し気の抜けた返事をしてしまった。なぜなら、渡辺明竜王への挑戦者はぜんぜん決まっていない段階だったし、羽生さんの1組5位ギリギリでの挑戦者決定トーナメント進出がやっと決まったのもその3日前(6月9日)のことで、「渡辺羽生戦が確実」などというような状況ではまったくなかったからだった。

 しかしその後も、羽生さんは新幹線の車内でしきりにパリの話をしていた。そして東京駅で別れたあとすぐに、パリ対局の日程についてのメールまで届いたのだった。

 「ああ、羽生さんは今年、名人と竜王の両方を取って永世七冠になるぞと、固い決意をしているんだなあ」

 と私は思った。

 そして私は、その決意に気圧されるように、シリコンバレーに帰ってすぐ、教えてもらった竜王戦パリ対局の日程に合わせてサンフランシスコ・パリを往復できるよう、飛行機のチケットを予約した。

 果たして、7月から9月にかけて羽生さんは、糸谷五段、深浦王位、丸山九段に連勝して挑戦者決定戦に進み(深浦戦、丸山戦は大逆転の末の勝利だった)、9月12日、木村八段との挑決三番勝負に勝って渡辺竜王への挑戦を決めた。そして「渡辺羽生の勝ったほうが永世竜王」というとてつもなく大きな舞台を創出することになったのだ。

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 たった今、2008年10月18日午後9時、パリ市内「ル・メリディアン・エトワール」9階スイートルームに特別設営された対局場で、渡辺竜王に羽生名人が挑戦する第21期竜王戦七番勝負が火ぶたを切った。

 立会人は米長邦雄将棋連盟会長、副立会人・解説は佐藤康光棋王、記録係は米長門下のプロ棋士・中村太地四段(二十歳)。国内ではタイトル戦の記録係は奨励会員が普通だが、海外対局では若手プロ棋士が記録係をつとめることが多い。朝七時半から和装で準備していた中村(太)四段は、これから二日間いっさい正座を崩さず、この大勝負の記録にのぞむ決意とのこと。振り駒で「歩」が四枚出て、先手は渡辺竜王に決まった。ヨーロッパ、日本からの40名以上の将棋ファンを対局室に迎え、渡辺竜王の初手▲7六歩、羽生挑戦者の二手目△3四歩が指された。これで戦型は矢倉にはならない。羽生挑戦者、六手目に角交換で、注目の第一局は一手損角換わりの将棋になった。