前夜祭からたびたび紹介されている天龍寺の決戦とは、1937(昭和12)年3月22日から28日にかけて行われた、花田長太郎八段(当時)と阪田三吉(没後、贈名人・王将)の対局です。
1870(明治3)年に生まれた阪田三吉が小野五平十二世名人に八段を許されたのは、1915(大正4)年のことです。当時の八段はほかに、関根金次郎、井上義雄(1920年没)、小菅剣之助(当時既に実業界に転身)の3人がいるだけでした。
タイトル称号としての「九段」1950年~1961年。段位としての九段は1958年に制度が始まっています。阪田が昇段した当時の八段は名人に次ぐ地位と実力を示すものでした。
1921(大正10)年に小野五平十二世名人が病没し、関根金次郎が十三世名人に就位しました。当時の八段は関根、阪田と土居市太郎(関根門下)の3人です。
この頃、東京将棋界は関根率いる「東京将棋倶楽部」、土居が主宰する「将棋同盟社」、大崎熊雄七段を筆頭とする「東京将棋研究会」の3つに分かれていました。
3つの団体が統合され、東京将棋連盟が結成されたのが1924(大正13)年9月8日のことです。(注:現在の日本将棋連盟は、この日を創立日としている)
東京将棋連盟発足とほぼ同じ時期に、大崎熊雄、金易二郎、木見金治郎、花田長太郎が八段に昇段しました。
3人しかいなかった八段が一気に7人になったことで、阪田三吉を名人に推薦する動きが関西の政財界に出て、1925(大正14)年4月に阪田三吉は名人に推薦されました。
東京将棋連盟はこれを受け入れず、それ以降阪田三吉は公式戦から遠ざかることになりました。
読売新聞社の将棋担当記者、菅谷北斗星は1928(昭和3)年頃から阪田の復帰戦を模索していました。菅谷は毎年のように阪田のもとを訪れていました。
1935(昭和10)年3月、関根十三世名人が引退を発表し、実力名人制へ移行することになりました。
3ヶ月後の6月には第1期の名人戦リーグが始まります。当時満66歳の阪田はこのリーグ戦参加には間に合いませんでしたが、菅谷北斗星の復帰要請に応じ、復帰戦が行われることになりました。
対局者として選ばれたのが、名人戦リーグでトップを争っていた木村義雄と花田長太郎です。
対局決定を伝える読売新聞(1936年12月)には「待望の巨人 今ぞ起つ!」「関西の棋聖阪田三吉氏 木村、花田両八段と闘う」と見出しがあります。復帰にあたり、阪田は「過去の段位や棋歴 一切を抛(なげう)って対局」するとあり、無段の棋士として対局に臨みました。
2局とも7日間、持ち時間各30時間という現代では考えられない条件です。
こうして行われた1937(昭和12)年2月5日~11日に行われたのが▲木村義雄八段-△阪田三吉の「南禅寺の決戦」です。95手で木村八段の勝ち。
また1937(昭和12)年3月22日~28日に行われた▲花田長太郎八段-△阪田三吉戦が「天龍寺の決戦」。こちらは169手で花田八段が勝ちました。
この2局はいずれも初手▲7六歩で、阪田が南禅寺の決戦では2手目△9四歩、天龍寺の決戦では2手目△1四歩と指したことが、後手番であるうえに1手損をするということで、現代に至るまで大変な反響を呼んでいます。
その後、第1期名人リーグを制した木村八段が名人位に就位し、1938(昭和13)年に始まった第2期リーグには阪田も参加した。9人が2回総当たりを行うリーグ戦は、1巡目に2勝以上しなければ2巡目の出場資格を失うというルールでした。阪田は1巡目を2勝6敗で終えて2巡目に入ると5勝2敗の好成績をあげました。リーグ成績は7勝8敗の負け越しでしたが、健在ぶりを示しました。
第2期名人戦リーグを終えた阪田は70歳で引退し、その後1946(昭和21)年に死去しました。
(参考資料:『9四歩の謎 孤高の棋士・坂田三吉伝』 集英社、岡本嗣郎著)
なお花田八段は第1期名人リーグを2位で終え、第7期名人戦(第2期順位戦、1947年~48年)の挑戦者決定戦(トーナメント)に進出しましたが、病気で棄権し、そのまま1948(昭和23年)2月に死去しました。この期の決勝戦が升田幸三八段-大山康晴七段の「高野山の決戦」です。
読売新聞社は1948(昭和23)年に全日本選手権戦を創設し、1950年からはタイトル戦の九段戦を創設。「名人九段五番勝負」の勝者を全日本選手権者としました(後に五番勝負は廃止され、全日本選手権戦は九段戦の別称扱いになった)。
1962(昭和47)年から九段戦が「十段戦」に改称し、1987(昭和62)年には十段戦が発展解消して「竜王戦」が誕生し、現在に至ります。