午後4時過ぎから小一時間対局室にこもったが、羽生さんが40分以上の長考で△6五桂を指しただけだった。ときおり「うん、そうか」とひとりごち、正座とあぐらを繰り返しながら、羽生さんはこんこんと考え続けていた。
控室に戻ったら、金子さんからこんなメッセージが届いていた。
『悪い手を指すとすぐに負けてしまうゲームなので、たまに良い手を指せても全体としてはまだまだだと思います。とはいえ、偶然でも、たまにでも、良い手を指せると嬉しく思います。』
そして、木村さん渾身の受けの手▲4八金に対するGPS将棋の指し手も届いた。
『4八金の後の局面です。途中までは△8九飛その後65桂に変わりました。評価値が後手に傾いてきています。 -725 △6五桂▲5六歩△8九飛▲6一飛△7九飛成▲4一飛成△3一歩▲4六歩△5七銀▲4七玉△2九龍▲4五歩△4八銀成▲3六玉△2八龍▲2四桂』
いまは、△8九飛で木村さんが考えている局面。▲4八金の後は、△6五桂▲5六歩△8九飛と、コンピュータの読み通りに推移している。
「これは検討通りに、一直線に行ってしまうかもしれないねえ」
という棋士たちの声を背に、午後3時に対局場に入った。木村さんが32分の長考の末、検討通りの▲7三歩成を指したところだった。消費時間は、両者ほぼ130分ずつと均衡している。まだまだ時間はたっぷり残っている。
木村さんは傍目にもちょっとつらそうに見える。やはり生身の人間だから、表情やしぐさやときおり発する声で、その感じが盤側にいてもわかる。対局者同士は、傍で想像する以上に、相手がどう考えているかを感じ合いながら、戦っているのだろう。
『羽生名人は1時間4分考えて▲2三歩と垂らしてきた。この長考中は本当に苦しい時間だった。▲2三歩でも▲5二金でも私が悪そうで、光は全く見えない。こんな時は平静を装うだけでも疲れる。羽生名人が席を外す度に私は大きくため息をついたり、頭を抱えたりしていた。控室や大盤解説場のモニターには映っているが対戦相手にだけはこんな姿を見せてはいけない。』
昨日、羽田から松山に向かう飛行機の中で、渡辺竜王から届いたばかりの新著「永世竜王への軌跡」を読んでいたら、竜王戦第七局の熱闘を振り返って渡辺さんは、こんなことを書いていた(p230)。
永世竜王を賭けた渡辺羽生の竜王戦最終局の終盤で、自らの非勢を意識しているときの描写である。木村さんの胸中も、こんな感じなのかもしれない。
控室では羽生勝勢という声も聞こえる。
いま木村さんは、74手目△5六角に対しての手を考えている。でも、きっとまだまだ頑張るだろう。
私がこの棋聖戦の観戦記を書くために、木村さんの過去の言葉を調べていていちばん感動したのが、彼の腹の底から絞り出されたような、こんな言葉だったからだ。
『負けと知りつつ、目を覆うような手を指して頑張ることは結構辛く、抵抗がある。でも、その気持ちをなくしてしまったら、きっと坂道を転げ落ちるかのように、転落していくんだろう。』(将棋世界2007年5月号)
「この手にどう指すんですかねえ」
屋敷さんが笑いながら、
「これ、しびれてますかねえ」と言う。
この手とは、GPS将棋がしきりに読み筋として指摘していた△4五桂を、ここで指してみたらどうかということである。いまは67手目▲9一桂成に羽生さんが長考しているさなか。
△4五桂について、控え室の棋士たちの直感は、3三の桂はそのままにして、後手は右辺の駒をさばいていくべき、という棋士の感覚に、コンピュータの感覚はちょっと違う、と言うのだ。
しかし、屋敷さんと勝又さんが68手目△4五桂を真剣に検討したところ、「いやあ△4五桂で、玉頭がめちゃめちゃ厳しいじゃないですか。コンピュータならではの先入観のない発想が良かったかもしれない」という話になった。
そこで羽生さんの手がモニター上にあらわれ、指したのが果たして△4五桂であった。控え室で歓声が上がった。
「羽生さんは、先入観がないからなあ」とは勝又さん。「コンピュータが、この△4五桂を読み筋に入れているだけで、褒めなくちゃいけない」。
しかし一応厳密にいえば、67手目▲9一桂成の時点でのGPS将棋が一つ最終的に選んだ指し手は、
『△8二飛▲8三歩△7二飛▲7八金△3一金寄▲8一桂△6五角▲3六飛△2三歩▲8二桂△7四飛▲同馬△同角▲7一飛△7三歩▲7二桂』
であった。勝又さんによれば、△8二飛はいい手じゃないけど、間違いなく△4五桂は読んでいたはずで、それは高く評価しなければいけないとのことだ。
そして、68手目△4五桂の局面におけるGPS将棋の手順提示は、
『▲7三歩成△同銀▲8三馬△7四角▲7二馬△5六角▲同歩△6五桂▲6六角△7七桂成▲3六香△5七金▲同角△同桂成▲同玉△5九飛』
であった。検討中の三浦さんが声をあげた。
「ここで検討している手順と全く同じだよ。▲7三歩成△同銀▲8三馬△7四角▲7二馬△5六角▲同歩△6五桂までは、いま屋敷さんと並べている手順そのままですよ!」
「これは飛車を見捨てる(角損の)寄せなんですよ。本当に終盤になると、おそろしく強いんだよ」とは、勝又さん。「こんな順が読めるんなら、強いよね」
「68手目△4五桂で、明らかに後手良しです」とは屋敷さん。