9月15日にリーマン・ブラザーズの破綻が発表されて以来、サブプライムローンに端を発した金融界の膿が一気に噴き出し、世界金融危機に陥り、世界中がその対応に追われている。これからしばらくは、実体経済の面でもとても厳しい時代が、世界全体で続いていくのであろう。
思えば、14年前にアメリカ(シリコンバレー)に移住してから、その半分にあたる「後半の7年間」は、2001年9月11日の同時多発テロを皮切りに、アフガニスタン、イラクで始まった戦争、そしてこのたびの世界金融危機と、ビジネスの最前線でその大波をかぶりながら生きざるを得ない毎日だった。14年前にシリコンバレーに渡ったときに思い描いていた明るい未来のイメージとはまったく違う思いがけないことが、とにかく次から次へと起こる中、何とか知恵を絞ってサバイバルしようと必死にやってきた。
そんな中で学んだ大切なことがある。
そういう、個人の手に負えないほど大きなことが周囲で起きたときに、私たち一人ひとりにできることはそれほど多くないということである。もちろんサバイバルのためにベストを尽くすのは大切だ。でも、そんなことばかりを365日24時間考え続けながら生きることは、私たちには到底できないのである。
テロが起きても、戦争が始まっても、世界経済が音を立てて崩れようとも、私たちは、毎日の生活の潤いや楽しみを求めて、音楽を聴いたり、小説を読んだり、野球を観たりしながら、精神のバランスをとって、したたかに生きていかなければならないのだ。文化は、その時代が厳しくなればなるほど、人々の日常に潤いをもたらす貴重な役割を果たすものなのである。
将棋は、日本が世界に誇るべき素晴らしい文化である。そして棋士はその素晴らしい文化を体現した、日本が世界に誇るべき人々である。将棋を指したり、将棋を観たり、将棋や棋士について語ったりすることは、日本人に与えられた素晴らしい贈り物である。そしてその贈り物を、世界中の人たちと共有することが、将棋のグローバル化ということである。
グローバル経済が、そして地球全体がたくさんの難題を抱えて混迷する今、第21期竜王戦第一局が、しかも将棋ファン待望の渡辺竜王と羽生名人との「永世竜王を賭けての対決」がパリで開催されることは、現代に重要な「何か」を象徴しているように、私には思えた。渡辺羽生の戦いの傍らに身を置いて、その「何か」を見届けてみたかった。そんなわけで、仕事を束の間休み、私はシリコンバレーからパリにやってきた。そして今、対局者の二人、若き竜王・渡辺明と挑戦者・羽生善治四冠、そして立会人兼解説者として米長邦雄将棋連盟会長と佐藤康光棋王。稀代の名棋士たちが、ここパリに集結した。思えば、先週末のパリでは、ユーロ圏(15ヵ国)の緊急首脳会議がエリゼ宮で開かれ、銀行間取引の政府保証や金融機関への資本注入など金融危機対策のための行動計画が発表され、先週の最悪の市場状況にいったんは歯止めをかけることになった。
この世界金融危機のさなかに、将棋を観るために、パリに向かう。
そんな不思議な旅の出発が近づくにつれて先週から、私の心の中では、なぜか日に日に緊張感が高まっていった。
ふと思い出すのは、7年前の同時多発テロ直後のこと。まだ多くの日本企業が海外出張禁止令を出していた頃、アメリカでは「予定通りの日常を何の変わりもなく生きることこそが、個人のレベルにできるテロとの戦いなのだ」という気分が横溢していた。私もそれに共感し、予定していた日本出張をキャンセルしなかった。しかしさすがにその日ばかりは、飛行機がサンフランシスコ空港からふっと浮揚した瞬間、ああこれが最期かもしれないんだな、という思いが頭をよぎった。
今回のパリへの旅には、むろんそういう物理的恐怖はなかった。でも「予定通りの日常を何の変わりもなく生きる」ことで、このたぴの経済危機と個人のレベルで折り合いをつけていこうという気持ちは、あのときと共通している。どうもそこからくる緊張感のようだった。
羽生さんと初めて会ったのは、2001年7月5日のことだった。翌6日に箱根で行われる第72期棋聖戦第三局(羽生棋聖対郷田挑戦者)を、私が観戦することになったからだ。
その二ヶ月前、私はパリで、「欧州の真の力強さとは何か」(中央公論01年7月号)というテーマの対談を、今北純一さんとした。その冒頭で、私はこんなことを話した。
『特にここ数年、ドッグイヤー(七倍速)的な時間が流れるシリコンバレーで、かなり激しく仕事をしてきたせいかもしれないのですが、昨年11月、パリ左岸のビュシー通りからジャコブ通りへと歩いていたとき、突然強い衝撃を受けたのです。あとから言葉で無理に表現すれば「この街では正しいことが正しく行なわれている」という感覚でした。それで半年も置かずに、無理に休暇を取って、またパリにやってきました。 』
今北さんと私は、アメリカの冒険主義的競争社会の面白さ、激しさ、厳しさと対比する形で、成熟したヨーロッパに秘められた力強さ、とりわけ世の中でどんなことが起ころうとも確固として変わらぬパリの街並みや人々の魅力について語り合った。
今北さんは、羽生さんとの共著「定跡からビジョンへ」(文藝春秋)も著しているパリ在住のビジネス・コンサルタントで、羽生さんとは旧知の間柄の人である(羽生今北の初対面は、14年前の、やはりパリでの竜王戦だったそうだ)。
というわけで、新幹線のホームでの羽生さんとの初対面では「はじめまして、梅田です。いちばん新しい「中央公論」誌上で今北純一さんと対談していた相手なのですが・・・」と挨拶した。むろん羽生さんが対談を読んでいることなどは全く期待していなかったが、今北さんという共通の友人の存在が何か話のきっかけになればと思ったのだ。
案に相違して、羽生さんの第一声は、
「ああ、ああ、はい、はい、読みました。どうも、はじめまして」
だった。激しい戦いの合間に、そんなものにまで目を通しているのかと、とても驚いたのをよく覚えている。
以来、羽生さんとの付き合いは7年以上になるのだが、出会いのときからして「正しいことが正しく行なわれている」パリという街の話題だったこともあり、ときおり「次にパリでタイトル戦があったら必ず観にいきますね」みたいな約束を、羽生さんが対局者であることを暗黙の前提に、確認するようになっていた。
そして今年の6月12日、棋聖戦第一局の観戦記を書いた翌朝、燕三条から東京に帰る新幹線の中で、羽生さんが突然、私にこう言ったのだ。
「今年の竜王戦は、パリでやるんですよ。」
羽生さんが名人位を奪取して永世名人の資格を獲得する5日前のことである。
私はふと答に窮し「ああ、そうなんですか」と、少し気の抜けた返事をしてしまった。なぜなら、渡辺明竜王への挑戦者はぜんぜん決まっていない段階だったし、羽生さんの1組5位ギリギリでの挑戦者決定トーナメント進出がやっと決まったのもその3日前(6月9日)のことで、「渡辺羽生戦が確実」などというような状況ではまったくなかったからだった。
しかしその後も、羽生さんは新幹線の車内でしきりにパリの話をしていた。そして東京駅で別れたあとすぐに、パリ対局の日程についてのメールまで届いたのだった。
「ああ、羽生さんは今年、名人と竜王の両方を取って永世七冠になるぞと、固い決意をしているんだなあ」
と私は思った。
そして私は、その決意に気圧されるように、シリコンバレーに帰ってすぐ、教えてもらった竜王戦パリ対局の日程に合わせてサンフランシスコ・パリを往復できるよう、飛行機のチケットを予約した。
果たして、7月から9月にかけて羽生さんは、糸谷五段、深浦王位、丸山九段に連勝して挑戦者決定戦に進み(深浦戦、丸山戦は大逆転の末の勝利だった)、9月12日、木村八段との挑決三番勝負に勝って渡辺竜王への挑戦を決めた。そして「渡辺羽生の勝ったほうが永世竜王」というとてつもなく大きな舞台を創出することになったのだ。
たった今、2008年10月18日午後9時、パリ市内「ル・メリディアン・エトワール」9階スイートルームに特別設営された対局場で、渡辺竜王に羽生名人が挑戦する第21期竜王戦七番勝負が火ぶたを切った。
立会人は米長邦雄将棋連盟会長、副立会人・解説は佐藤康光棋王、記録係は米長門下のプロ棋士・中村太地四段(二十歳)。国内ではタイトル戦の記録係は奨励会員が普通だが、海外対局では若手プロ棋士が記録係をつとめることが多い。朝七時半から和装で準備していた中村(太)四段は、これから二日間いっさい正座を崩さず、この大勝負の記録にのぞむ決意とのこと。振り駒で「歩」が四枚出て、先手は渡辺竜王に決まった。ヨーロッパ、日本からの40名以上の将棋ファンを対局室に迎え、渡辺竜王の初手▲7六歩、羽生挑戦者の二手目△3四歩が指された。これで戦型は矢倉にはならない。羽生挑戦者、六手目に角交換で、注目の第一局は一手損角換わりの将棋になった。