カテゴリ

梅田望夫氏、第80期棋聖戦第1局リアルタイム観戦記

2009年6月 9日 (火)

【梅田望夫観戦記】 (9) 一致していた両対局者の大局観

 午後5時半に対局室に入ったときは、木村さんが97手目▲9四歩を指したところだった。

 そこから約2時間後の午後7時29分、木村さんは一分将棋まで頑張り続け、最後に50秒、1-2-3まで読まれたところで、駒台に手を置いた。

 終局後、いちばん興味があったのは、控え室で大きく割れた大局観について、対局者二人がどう考えていたかであった。

 羽生、木村、二人の大局観は、先手有利でぴったりと一致していた。

 勝者・羽生棋聖の感想第一声は、

 「駒が偏り過ぎて、攻め味がなくなって、作戦負けだった。仕掛けられてダメでしょう。先手の銀二枚のおかげで動けなくなってしまった。」

 だった。

 敗者・木村挑戦者のほうは、

 「▲6八角で十分やれそうだと思ったし、序盤もまずまずだったのに、そのあと乱れてしまった。相手の端攻めはそこしかないと思ったけれど、意外にうるさ かった。王さまがのこのこ出て行って、結局はダメだったけれど、そのときは良かったと思ったんだから、仕方ありません。▲9三歩成が悪かったような気がし ます」

 と語った。

 羽生棋聖は、「やる手がなくなってしまって、囲いに行くのではだめですね」と、穴熊は不本意という様子だった。このことについて、大局観をやや異にする深 浦王位は、「穴熊にすることについてはそこまで悪いと思わない、その直後の△8四飛が△8二飛なら穴熊の陣形も堂々として十分だったと思う」と語った。

 「ねじり合い」の入り口となった▲6八角の時点では、木村さんの感想通り、先手が少しよく、その直後の▲4五銀(79手目)が緩手で、▲9三歩成(103手目)が悪手で、そこから先は形勢が大きく傾いたというのが、難解な感想戦のエッセンスのようであった。

 木村さんで印象的だったのは、体調も少し悪いうえに敗戦直後だったにもかかわらず、大盤解説会でもじつに快活にファンと接し、感想戦では観戦記者への気配りを見せ続けていたことだ。

 親友の野月さんが言う「繊細、気配り、優しさ」に溢れた素晴らしい振る舞いだった。

 そして午後9時、感想戦が終わり、羽生棋聖が席を立った直後、一人残った木村さんは、朝から12時間休むことなく記録をとった天野三段のほうを向いて、「本当にお疲れ様でした」と、微笑みながら、じつにやさしく声をかけた。その顔がなんとも言えずよかった。

 その顔を見て、昔読んだ、先崎学八段の木村評

 「盤の前では鬼のような男だが、盤を離れるとちょっぴり人がよすぎる。 (中略) 木村君は涙もろいのである。勝って泣き、負けて泣く。人のお祝いでも泣く。だから仲間に好かれ、ファンに好かれるのだ。」(「将棋世界」2006年2月号)

 こんな言葉を思い出したのだった。

【梅田望夫観戦記】 (8) 「ねじり合い」の入り口

 午後4時、控え室での30分の真摯な検討内容をだいたい頭に入れて対局室に入った。71手目▲3五歩に対して、羽生棋聖が長考に入っているところだった。 そこから77手目▲6八角が指された(激しい▲3五角ではなく)ところで、控え室に戻った。「攻める木村の誕生だ」と盛り上がっていた検討陣は、▲6八角を見て、「やはり木村さんは木村さんだった」と総括していた。

 「▲3五歩から▲6八角までの指し手は木村さんにしか指せない手でしょう。これで「ねじり合い」の入り口に入ったと言えるでしょうね」とは深浦王位。

 「とにかく『▲3五歩から▲6八角』という一連の手順は、控え室では少なくとも候補に挙がらない手でした。僕のイメージしている『ねじり合い』というのは、一つのイメージですけど、お互いせめぎあってる感じ、どろどろした感じ。力と力の比べ合いというか。木村さんがどこまで意図的かわかりませんけど、簡単には攻めつぶせない羽生陣に対して、少しちょっかいを出して、角を引いたわけですよね。これは、相手の読みを簡単にさせないというか。ちょっかいを出して一歩引いたというのが、木村さんらしい、ねじれた現象というか。戦っていて、ふっと引いて、間合いをはかる。「ねじり合い」というのは、トップギアではないと言えるかもしれませんね。トップギアではなくてセカンドギアなんだけれど、あとを考えるのがより難しくなるのが「ねじり合い」ということかなと思い ます。たとえば▲3五角だとすれば、谷川先生の『光速の寄せ』的なのですが、そのあとを考えるのは『ねじり合い』よりも簡単になります。」

 と、深浦王位は、いかにも言葉にするのが難しいという様子だった。

 「先ほど、控室のプロ棋士の皆さんでの検討、大局観が大きく割れたあたりというのは」と尋ねると、「駒の効率、対、堅さ。どれを重く見るかですね。堅さをみたのが僕と渡辺君、厚みとか駒効率を重く見たのが、藤井さんや飯塚さんでしたね。いずれにせよ、『木村流でねじり合いの入り口に入った』と言えると思います。」

 こう話して深浦王位は、「僕の頭もねじれてきたような気がするなあ」、とつぶやきながら大盤解説会場に向かった。

【梅田望夫観戦記】 (7) 揺れ動く局面、割れる大局観、そして膠着状態か

 藤井九段と飯塚六段は大盤解説で「先手の模様がいい」と断言して控え室に戻ってきた。

 ここまでここで報告してきた、深浦王位と、自宅からメール参加の渡辺竜王の後手良しという大局観と真っ向からぶつかっている。「勝敗は置いておくとして、模様だけなら先手がいいですね。でも、穴熊は勝敗にこだわる戦型だからね」「渡辺君は穴熊が本当に好きなんだねえ」「羽生さんはここは難しいと思ってました、ってあとで絶対に言うよ」とは、藤井九段。

 そして、「後手がいいって、具体的に何がいいのか言ってくださいよ」と藤井九段が言い、深浦王位、青野九段を交えて、羽生棋聖が穴熊を完成させた64手目の局面から、検討に熱が入ってきた。


 羽生さんの言葉

 『でも、将棋の局面というのは、つねに揺れ動き続けているようなものなんですよ。或るプロ棋士に訊いてこっちが良いと言っても、違うプロ棋士は自信がない、と言う。タイトル戦に限らず、大部分の対局は、その微妙なギリギリのところで、ずっとずっと揺れ動き続けているものです。』(「シリコンバレーから将棋を観る」第七章)

 が頭によみがえってくる。


 「しかしここまで大局観が割れることも珍しいなあ」とは、「将棋世界」観戦記担当の小暮さん。

 そして羽生棋聖は一手パスのような手を指し、指し手が70手目までの現段階で、局面は膠着状態に入ったのだろうか。

 対局者二人は果たしてどんな大局観を持っていることだろう。


 検討を進める藤井九段は、先手に絶対の自信を持っているようだ。「勝ちはもう三種類出た」と断言している。渡辺竜王と電話で話そうというような冗談まで出ている。

 深浦王位は、まったく納得していない。



(追記)

 藤井九段の構想通りの▲3五歩を木村挑戦者が指したのを見て、「新しい木村の誕生だ、攻める木村だ!」と、藤井九段。

(追記の追記)
 30分の真摯な検討の末、藤井「互角だ……バランスがとれている」。

【梅田望夫観戦記】 (6) 急戦矢倉の新しい地平について深浦王位に聞く

--------------------------------------------

梅田 お伺いしたいのは、急戦矢倉の歴史観です。深浦さんの「最前線物語」シリーズの最新補足版のようなお話を伺いたいのです。羽生さんの「変わりゆく現代将棋」連載が終わったあとしばらくして、急戦矢倉はあまり指されませんでした。しかし、先日の竜王戦の第6局、第7局、久しぶりに渡辺さんの新手が出ましたね。△3一玉と、△3三銀。この二つの新手は、後手から急戦矢倉にしたけれど、ふっと玉を囲う、あるいは守るという手だったように見えました。そこから急戦矢倉の新しい流れが出たというふうに考えていいのでしょうか。今日も、後手番の羽生さんは、△2二玉、△4二金右と、急戦矢倉に誘導しながら、なおかつ玉を堅くしていますね。これは過去からの歴史で観たときに、ものすごく新しい進化の流れなのでしょうか?


深浦 そうですね、本局の現局面から言えば、羽生さんとしては理想的な手順を指していると言えるでしょうね。それにしても竜王戦の羽生‐渡辺戦の意味は大きい。後手の羽生さんには不満のない展開だと思います。後手が急戦矢倉をやる。5五歩交換して、△7三角と転換するという形は、先手も▲2五歩と飛車先を突いて、先手2筋の交換は後手として「許すしかない」という考え方だったんですね、昔は。後手の△3三銀が欲張った手で、角のさばきも成立していますし、先手の飛車先の歩も交換させない。この「欲張った手が成立しそう」というのが竜王戦7局目の渡辺さんの勝利に繋がった。そこは急戦矢倉における新しい地平だと思います。


梅田 今回は、さらに羽生さんが玉を固めていますね。


深浦 それができたのも、△3三銀と2筋の歩を交換させない効果で。もし交換させていながら本譜の順を選ぶと、さほど堅くない形になって、先手も二歩持っているということになって、そんなに後手も作戦勝ちが望めないでしょうね。


梅田 羽生さんは理想的とおっしゃいましたが、そうすると、木村さんのほうはどんな意図で?


深浦 これはそうですね、ある意味、木村さんって鈍感なところがあって(笑)、「力が出しやすい形であれば、いい」というのに近いと思うんです。現在、決定的に悪いというのでもないですし、厚みが存分に活かせる形はあるんですけど、ただ、渡辺世代からいえば、圧倒的に後手を持ちたい人が多いでしょうね。


梅田 そうすると、いま中継をご覧になっている渡辺さんは、後手よしと思いながら観ているであろうと。


深浦 そう観てますでしょうねぇ、間違いなく。僕も後手がよさそうに思います。研究会とかで渡辺世代の人とやることも多くなりましたけど、やはり後手を持って、攻めの態勢でどんどんいきたい感じですね。


梅田 そうすると、五段向け解説で▲5五歩がいい手で、先手の厚みがずっとあるとおっしゃっていたことは……


深浦 そういう指し方を貫くしか、先手はやりようがない。今までの流れを活かせないと思うんですね。やはり6五歩の位を早めに取って、2枚の銀が盛り上がってきたので、それを活かすためには。


梅田 「△3三銀という欲張った手が成立しそうで、そうなると後手よしかもしれない」という仮説がもし成立しそうであるならば、先手はその前に何かしないといけないわけですが、どこで何をすればいいんでしょうか。


深浦 そうですね。渡辺さんと羽生さんが最近の王位リーグで示したのは、5五歩を交換させない、というやり方ですね。


梅田 それがさっき渡辺さんがブログで書いていらっしゃった「いきなり▲5七銀右」と中央に備える指し手の意味なんですね。だから渡辺さんは、現在の局面は後手がいいと思っている。それがイヤだから▲5七銀右としたということですか。


深浦 僕としては、5五歩交換させても先手が悪いとは思えないので、▲6五歩以外の手を考えていきたいところですね。一つは自然に▲7九角と引いて、矢倉囲いの駒組みを完成させる。あとは、▲5六金、△7三角、▲6五金と形を崩して、後手の角を圧迫する指し方ですね。△5五歩、▲同歩、△同角、▲2五歩、△3三銀、それから▲5六金ということですね。そういった指し方を考える必要があるかなと。▲6五歩は棋風にもよりますが、僕は現局面では先手はちょっと不安に思うので……。


梅田 羽生さんは、そこに誘導したということですか。木村さんなら▲6五歩とするんじゃないかと。


深浦 そうですね。ただ、木村さんも悲観もしてないと思いますね。局面が「負けにくい形なら、いい」というのでやっているような気がします。


梅田 あっ、羽生さんが穴熊に囲った!


深浦 ……渡辺竜王の影が見えますね、今日の羽生さんの指し方には。


【梅田望夫観戦記】 (5) 深浦王位による5級向け、初段向け、五段向け解説

以下、深浦王位のインタビューです。

---------------------------------------------

 今、昼食休憩時、木村さんが▲4六角と指した局面ですね。羽生さんの次の一手は、△7三角か△9二飛の二択だと思います。おそらく△7三角だと思うので、そこを中心にやっていきたいと思います。

【5級】
 △7三角ですと、5級だと▲同角成とやりたくなりますね。△同桂、で一歩ありますので▲7五歩と突きたくなります。△同歩ならば▲7四歩で、一歩が活きて先手よしですね。 ただ、▲7五歩には△8六歩がいいカウンターで、▲同歩、△同飛、▲87歩、で△6六飛、▲同金、△3九角、▲6八飛、△5七銀、これは後手が大成功になりますね。5級の人はこういうカウンターがあるということを理解してください。▲7三同角成と行ってはいけないのです。

【初段】
 これから一つレベルアップして、初段向けの解説です。△7三角に対して、ちょっとできる人になると、ここで角交換が駄目だとわかります。後手が角を引いたことによって、飛車道が通りますよね。▲6八角というのはちょっと大人の指し方というか(笑)、一回出ておいて引くから、角一つ上がっただけになりますけど、将来の▲7九玉からの入城と、あと▲7五歩という手が、角を引かせたことによって成り立ちますね。▲6八角の局面で△4四銀右の手が、次の△5五歩を狙うわけですね。銀を殺そうと。そしてここで、やわらかく▲4六歩と受けるような形になりますけど、△5四歩から後手が銀をぶつけていけば、後手玉の堅さが生きるわけですね。実際は▲6八角だとこんなふうに少し後手がよくなります。これが初段向けの解説という感じですね。

【五段】
 五段の人ですと、△7三角で、そこで▲5五歩という手が見えるはずです。初段向けで説明した後手の△5四歩から△5五銀を防ぐ意味があります。非常に重厚ながら、また木村八段らしいかなと。次に▲7五歩、△同歩、▲同銀と△7三角を圧迫する狙いがあります。
 ▲5五歩の後の展開は、▲7五歩の狙い、ゆっくりすれば3六歩から3七桂、このあたりの厚みが非常にいい。重厚にやるのが五段の指し方かなと。
 ▲5五歩に対してこうなってくると右桂もさばけてくるので、何か、後手が▲5五歩のときに動いていくと思うのです。

 

【梅田望夫観戦記】 (4) 必見、新たなる急戦矢倉の展開

 対局室から戻ってきたら、渡辺竜王のブログが珍しく午前中に更新されているではないか。

 『……将棋のほうは9時32分現在18手目△5三銀右まで。例の急戦矢倉スタートの局面です。
 以下は補足情報。5月29日の王位リーグ▲渡辺-△羽生名人では△5三銀右に▲5七銀右と指しました。この手は前例が10ほどあって新手ではないのですが、僕が竜王戦で新手を指してからの、新たな急戦矢倉の歴史としては新研究のつもりでした。……』 (渡辺明ブログ「本日棋聖戦第1局、明日対局。」

 ちょっと控え室で休もうと思っていたところなのであるが、これを紹介しないわけにはいかない。

 今日の羽生さんは、竜王戦第七局の渡辺側を持って30手まで指していたが、木村さんが31手目で、竜王戦で先手を持っていた羽生さんが指した▲7九角ではなく▲5七銀上と指して、竜王戦第七局から別れを告げた。さっきは羽生さんが何だか嬉しそうにしていたが、ブログの向こうにあの将棋を思い出している渡辺さんの嬉しそうな顔が目に浮かぶ。二人にとってあの一局は、勝者・敗者の別などなく、「生涯の幸福な一局」の一つなのに違いない。

 棋士たちを見ていていつも思う。

 彼らは、手元に本などの読むものを持っていなくても、パソコンや携帯などを持っていなくても、自らの豊穣な記憶の中を遊びながら、いくらでも充実した時間を過ごすことができる。

 本当にうらやましい。

【梅田望夫観戦記】 (3) 木村八段はなぜ着物で勝てないのか?

 午前9時40分、急戦矢倉と決まって、私は再び対局室に入った。

 羽生棋聖の手は早く、木村挑戦者は小刻みに時間を使っている。羽生さんは何だか嬉しそうににこにこしている。何かを思い出して楽しんでいるようにも見える。今の段階でこの将棋は、昨年12月の永世竜王を賭けた竜王戦第七局の激闘の、渡辺竜王の側を羽生さんが持っているのだ。ひょっとすると羽生さんは、竜王戦第七局での渡辺竜王との激闘を思い出して、嬉しそうにいるのかもしれない。

 午前10時、おやつ(フルーツ盛り合わせとコーヒー)の時間が来た。木村さんは丁寧に、仲居さんに「ありがとうございます」と御礼を言った。盤面に没頭している対局者は、おやつが届いたって、別に見向きなんてしなくたっていい。木村さんは気配りのいい人だなあと思うと同時に、親友・野月七段の一昨日の言葉を思い出した。私は、日本に着いた翌日(一昨日)、木村さんについての話を聞くために、野月さんとずっと話をしていたのだ。

 『木村は、和服で十連敗か十一連敗しているでしょう。木村っていう男は、練習将棋でもいつも真剣そのもので、ハンカチを口に突っ込んで、それをギュッと噛みしめながら考え、しばらくしてそれをぽとっと床に落としたりする。無意識のうちに立て膝になったりね。そういうことをタイトル戦でもやればいいんだけど、まわりに気を遣いすぎるんだ。木村は、タイトル戦ではすごく委縮していますよ。自分さえよければいい、ってそういう気持ちでやればいいんだ。でもそうしないから大一番で勝てない。タイトル戦や大舞台で勝てないのは、繊細さが裏目に出てるからではないでしょうか? 子供の頃から大一番は本来の強さが出せないんです。でもね、それも含めて、人間くささが木村のいいところなんです!』

 通算勝率が七割近い常勝の木村八段が、タイトル戦でまだ一勝もしたことがない(加えて大勝負だからと着物を着た対局でも勝ったことがない)というのは、将棋界の七不思議の一つである。たしかに、タイトル戦の現場に身をおいてみると、対局者にいい将棋を指してもらうために、本当に大勢の人が二人に尽くすものだ。そういう環境の中にいても、気を遣いすぎず、「俺にそれだけ尽くすのは当たり前だろう」と自然にふるまう図太さが、トッププロにも求められる資質かもしれない。

【梅田望夫観戦記】 (2) 羽生棋聖の急戦矢倉か?

 午前8時47分、着物姿の木村挑戦者が先に入室。明るく大きな声で「おはようございます」。そしてすぐに瞑想に入った。2分後に羽生棋聖が入室して、3分ほどかけて駒を並べ終わった。記録係・天野貴元三段の振り駒でと金が三枚出て、木村挑戦者の先手が決まった。立会人・藤井猛九段の発声で、対局開始。木村挑戦者の▲7六歩に対して、羽生棋聖少考で△8四歩、そして木村挑戦者の▲6八銀で、すらすらと矢倉戦に向けての駒組みが進んでいる。

 深浦王位は言う。

 「羽生さんは先週の名人戦第五局のストレスを抱えていると思うんです。あんな将棋を二局続けてはやりたくない、という気持ちが強いと思います。昨日の羽生さんの「面白い迫力のある将棋を指したい」という言葉は、ああいう将棋にはしたくない、という意味だと思いますよ。だから羽生さんは、今日は主導権を握るべく積極的にいく決意でいると思います。羽生後手で矢倉戦ですから、昨年の竜王戦第六局、第七局のような急戦矢倉もあると思いますよ。」

 木村挑戦者には「千駄ヶ谷の受け師」という異名がある。深浦さんの予想通りであれば、羽生の攻め、木村の受けという展開になるのかもしれないが、木村挑戦者の子供時代からの親友・野月浩貴七段は、「千駄ヶ谷の受け師」という言葉に異をとなえる。彼から届いたメールの一部を転載するが、

 『木村ですが、繊細、気配り、優しさ、気の強さ、意地っ張り、を持ち合わせた性格です。受けが持ち味のように書かれていますが、あれは見る目のない人達が作り上げたイメージで、戯言です(笑)本質は攻めの厳しいタイプで、切れ味も鋭さも一流です。受けているように見えるのは、相手をからかって応対しているか、相手の攻め駒を攻めているのです。』

 野月七段は「木村の本質は攻めですよ」と言う。

 さて、今9時21分。14手まで矢倉戦ですらすら進んでいる。まもなく、羽生棋聖が急戦矢倉を選択するかどうかがわかる。

 

 (追記) 果たして深浦王位の予想通り、羽生棋聖誘導での急戦矢倉の展開となった(9時33分)。

【梅田望夫観戦記】 (1) 将棋界は「これからの10年」抜群に面白くなる

 ただいま午前3時45分。寝静まった新潟岩室温泉高島屋の控え室である。

 昨日午後1時、上越新幹線ホーム集合で、対局者、観戦者とともに、棋聖戦第一局の開催地・新潟にやってきた。羽生善治棋聖対木村一基挑戦者という現代将棋最高カードの五番勝負が、まもなく幕をあける。

 羽生さんはいま四冠(棋聖、名人、王座、王将)を保持している。2008年度はすべてのタイトル戦に出場したうえ、名人戦の激闘と並行しての棋聖戦開幕である。

 羽生さんは今年度に入ってから、11戦4勝7敗(0.364)、名人戦も郷田挑戦者に2勝3敗とカド番に追い込まれ、珍しく羽生不調説がささやかれている。

 私は、この観戦記を書くために、先週土曜日にシリコンバレーから日本にやってきた。「羽生さんは元気なんだろうか」、どんなに凄い人だって、ときには疲れだって出るわけだしと、じつはずっと心配していたのだ。

 しかし昨日新幹線ホームに現れた羽生さんは、元気いっぱいでじつに快活であった。そして、約二時間の東京から燕三条までの新幹線のなかでは、隣に坐った副立会人の飯塚祐紀六段を相手に、ぶっ通しで四方山話にあれこれと花を咲かせ、心から楽しそうににこやかに笑い続けていた。過密スケジュールで疲労困憊のときは、移動のときくらいは休みたいので寡黙になるのが普通だ。マイクロバスで高島屋について、関係者が諸準備を進めるなか、スタッフの誰ともなく「羽生さん、電車のなかで、ずっとしゃべっていましたよね」と言った。みな口に出さなかったけれど、同じことを思って、ほっとしていたのだ。

 しかしその矢先、傍らにいた挑戦者の木村さんがこう言った。

 「羽生さんがしゃべりつづけているから、対抗して僕ももっと大きな声で話をしてやろうと思ったんだ。でも隣の藤井さん(立会人の藤井猛九段)が寝ていたから話せなくて(爆笑)」

 ああ、やっぱり木村さんも気にしていたんだなあ。

 そう思うと同時に、二人の勝負は新幹線の中からもう始まっていたのだと改めて思った。そうか、勝負がもう始まっているのなら、僕も観戦記を書き始めよう。そんなわけで、こんな朝早くから起きて、パソコンに向かっているのである。

 『調子が悪いときは、手が浮かぶスピードもにぶいし、方向性もずれています。しかも、指してみないと分りませんから、対策の立てようがないんです。コンディションがいいかどうかはその日になってみれば分かりますけど、調子がいいかどうかは分かりません。天気と一緒です。雨が降っているからといって、雨を止めるわけにはいかないでしょう。「今日は雨だ」と思うしかありません。そんなものです。(将棋世界2008年9月号インタビュー)』

 これは、羽生さんが「調子」をめぐって語っている数少ない言葉の一つだが、どうも羽生さんのコンディションはよさそうだ。彼の「今日の調子の天気」は果たして快晴だろうか、それとも雨だろうか。

 今日は、そんなわけで、対局が始まる前に一本、原稿を書いてアップしようと思う。テーマは何にしようかと、昨夜前夜祭のときに考えていたのだが、僕が最近「将棋界はこれからの10年、抜群に面白い時代に入る」と確信するに至った四つの理由について書いてみようと思う。


 第一の理由は、棋士同士の戦いが間違いなく「戦国時代」に入るということである。

 「四つの世代」のせめぎ合いという視点でこれからの「戦国時代」をとらえると、将棋に詳しくない方にも、将棋界を俯瞰した視点が持てるのではないかと思う。

 「四つの世代」とは、この十五年、将棋界を制覇してきた「羽生世代」(1969年から71年生まれ)。そしてその「ちょっと下の世代」(1972年から1975年生まれ)。さらに、二十代半ばの「渡辺竜王を中心とする世代」(1980年から1985年生まれ)。そしてそれよりも「もっと若い世代」。

 この「四つの世代」が、これからの十年、激烈な争いを繰り広げることになるのだ。

 なぜ「これからの十年」なのかと言えば、圧倒的に強かった羽生世代がこれから40代に差し掛かり、年齢とともに押し寄せてくる衰えの中で、誰にも大きなチャンスが訪れるからだ。

 たとえば将棋世界最新号で中原十六世名人が

 『私も大山先生もそうでしたが、40歳を超えると、外からは同じようにタイトルを防衛しているように見えても、実はふうふう苦労するようになります』

 と語っていたが、尋常でない精進を続けながら切磋琢磨してきた羽生世代は、果たしてこの「40歳限界説」を覆し、これからの十年も棋界を制覇し続けられるだろうか。これが第一の大きな興味である。

 昨日からこの棋聖戦第一局に、将棋連盟の渉外担当理事として同行している青野照市九段にこんな文章がある。2001年暮れに書かれたものだ。

 『羽生世代の先頭集団は、羽生のほかは佐藤康光、森内、郷田真隆であった。この四人はちょっと別格と思っていたら、後からやってきた丸山、藤井も追いつき、そして追い越す勢いで昇ってきた。これもやはり、同世代のライバルたちが強すぎたお陰であろう。これに対し、次世代の若手はもう一つ、羽生世代に頭を押さえられている。次の世代にも深浦康市や久保利明、鈴木大介、木村一基、行方尚史といった勝率七割に近いような逸材が何人も控えているが、いまのところタイトル獲得まで手が届いたのは三浦弘行が羽生から棋聖を奪ったにすぎない。(平成13年12月)(「第一線棋士!」(青野照市著 清流出版) 所収)』

 青野九段が7年半前にこう書き記した「頭を押さえられてい」た「次世代」の6人は、みなほどなくしてA級に上がった。中でも、深浦さんは35歳にして2007年に王位に、久保さんは33歳にして2009年に棋王に就いた。そしてこのたび棋聖位に挑戦する木村さんが35歳。棋聖戦期間中に36歳になる。

 じつはここ2-3年、「頭を押さえられてい」た「次世代」の台頭が目覚ましいのである。とりあえず「ちょっと下の世代」とここでは呼びながら話を進めたい。

 2007年度以降のタイトル戦は、この棋聖戦も含めて16ある。なんとこの16のタイトル戦のうち半分の8つまでが、「羽生世代」対「ちょっと下の世代」の対決になっていたことを、皆さんはご存じだろうか。

 昨夜の前夜祭で隣に座った、まさに当事者である深浦康市王位にその話をしたら、「えっ、そうなんですか」と、全然そういう見方をしていなかった。

 2007年度は、羽生久保戦(第57期王将戦)、羽生久保戦(第55期王座戦)、羽生深浦戦(第48期王位戦)の3つ、2008年度は、羽生深浦戦(第58期王将戦)、佐藤久保戦(第34期棋王戦)、羽生深浦戦(第49期王位戦)、羽生木村戦(第56期王座戦)の4つ、そして2009年度はこのたびの羽生木村戦(第80期棋聖戦)。

 少し前までタイトル戦と言えば「羽生世代」同士の戦いと相場が決まっていたが、これだけ「羽生世代」対「ちょっと下の世代」の対決が続いているのである。

 そしてこの夏の王位戦で、深浦王位への挑戦権を賭けた挑決に木村八段が名乗りを上げているから、もし王位戦が深浦木村戦となるならば、初めての「ちょっと下の世代」同士の対決がタイトル戦で行われるのだ。目立たない形でなのかもしれないが「ちょっと下の世代」の存在感が日に日に高まっているのである。

 しかも米長会長は「40歳を過ぎても弱くならないのは深浦と木村でしょう」と予言していたことがある。「これからの十年」の特に最初の数年は、40代に差し掛かる「羽生世代」対「ちょっと下の世代」の対決が最高に面白くなる。今日の羽生木村戦は、そのことを象徴する戦いと言っていいのである。

 そしてそれから「渡辺竜王を中心とする世代」と、棋聖戦挑決に進出した稲葉四段らを中心とする「もっと若い世代」がそれに続き、当然のことながら日に日に強くなってくる。

 羽生さんは、新著「勝ち続ける力」(柳瀬尚紀との共著)の中で、渡辺さん以降の世代について、こんな面白いことを話している。

 『渡辺さんの世代は、その(将棋の)体系化がかなり具体的に形になった時代に育ってきた第一世代です。ですから、将棋が学術的な形で学んでいける環境の中で、成果を吸収したり分析したりして強くなってきています。(中略) 渡辺さんの世代は、一つの形を見て、将来性があるかどうか、とても鋭い判断力を持っているんですよ。(中略) あの世代は、余計な情報、今の段階では使えないような知識はいっさい持ちません。どんな歴史があったとしても、ぱっと先入観なく、分け隔てなく切り捨てることができるんです。ですから、この形はすごく未来が描けそうだとか、この形にはほとんど将来性がない、という見極めはとてもシビアで、はっきり見えています。(p213-214)』

 激しい時代の流れの中で、時代環境の異なった養分を吸いながら育ったそれぞれの世代が「戦国時代」にどんな戦いを見せるか、本当に興味が尽きない。


 「これからの十年」が面白い第二の理由は、現代将棋の進化のスピードがますます上がり、将棋とは何ぞやということについての研究がものすごい勢いで加速していることだ。その過程で、昨年は後手勝率が五割を超えたりと(後手の1176勝1164敗、今期も5/24まで後手の123勝120敗)、これまでの「将棋は先手有利のゲームなのだろう」という常識を覆す事象が見られるようになった。

 『あの……何と言えばいいのか、今の私たちがやっていることって、ある種、学術的な感じもするときがあるんです。棋士の人たち、ゲノムかなんかの解析をやってるんじゃないか、と思うときもあります。(中略) なんか、ある手について「よし、ここは解析終了した」とやっているような(笑)。(「シリコンバレーから将棋を観る」第七章)

 とは羽生さんの言葉だが、本当にこの先、現代将棋にどんな進化が見えてくるのか。本当に面白い。


 そして第三の理由は、コンピュータ将棋がとにかく強くなってきたことだ。ついに人間対コンピュータの最高峰の戦いが、いよいよ射程に入ってきたのである。そしてそれには2009年1月28日の事件が深く関係している。

 事件とは、最強ソフトの一つ「ボナンザ」のソースコードが公開されたことである。ソースコードが公開されると、世界中の誰もが自由に「ボナンザ」の思考の中身を学び、そこに改良を加えてその成果を世に問うことができる。結果として、開発の切磋琢磨が激しくなって、進歩が加速されていくのだ。その証拠に、ソースコード公開からわずか三か月後に行われた第19回世界コンピュータ将棋選手権(5月)では、ボナンザに学んだボナンザ・チルドレン(コンピュータ将棋に詳しい勝又六段の言葉)が、上位を占めてしまった。そして今も、日進月歩のスピードで強くなっているのだという。

 第二の理由で述べた棋士たちの現代将棋を究める営みの成果をも、着々とコンピュータも学んで日に日に強くなっている。もう間違いなく「これからの10年」のうちに、人間の最高峰対コンピュータの戦いがあるだろう。将棋ソフトの開発者の鼻息もかなり荒くなってきた。

 第19回世界コンピュータ将棋選手権で準優勝した大槻将棋の大槻知史さんは、自戦記でこう書いている。

 『あくまで直感に過ぎないが、来年の選手権では、とてつもないものを見られそうな気がする。おそらく棚瀬さん、鶴岡さん、山下さん達がとんでもないソフトを投入してきそうな予感がするのである。そして、おそらく優勝ソフトの実力は、遂に完全なるプロレベルに到達する、と予想しておく。X-dayは静かに、そして確実に近づいている。』

 X-dayを迎えるとき、人間たる棋士たちの「四つの世代」のどの世代の誰が、最強コンピュータソフトを迎え撃つことになるのか。そしてその勝負のゆくえは? そして長い目で見た時に、トッププロ棋士とコンピュータはどういう関係を築いていけばいいのだろうか。知的興味は尽きない。

 ところで私は、自分が書いた本のウェブ上での感想をすべて読んでいるのだが、「シリコンバレーから将棋を観る」への面白い感想のひとつに、「将来、将棋でもコンピュータが名人に勝つ日が来るだろう。そのときには、その棋譜を多少なりとも理解したい」と書き、だからこれから将棋の勉強を始めるのだ、と宣言していた方がいたが、世の中には本当に色々なきっかけで将棋への情熱に目覚める人がいるのだなあと思った。


 そして第四の理由は、そういう諸々のプロセスが、ネットをフル活用して、将棋ファンの誰もが、観戦・観察・鑑賞できる時代になったということである。技術的にはもう何年も前からできるようにはなっていたが、将棋連盟、主催者の理解が進んだことが大きい。

 ちなみに今日は、将棋連盟と産経新聞社がネット中継を共催することになった記念すべき第一局である。とても贅沢なことに、深浦王位がネット中継の解説だけのために将棋連盟からここ新潟に派遣されているのだ。

 しかも、棋譜中継のコメント入力は「烏」こと後藤元気(ごとげん)さん。後藤さんは観戦記者でもあり、「高勝率者同士の対決」という羽生木村戦の観戦記も過去に書かれている。興味のある方はグーグル検索して読んでみるといいと思う。控え室には青野九段、藤井九段、飯塚六段、深浦王位が揃い、彼らの情勢判断や手の意味の解説や「次の一手」予想などは、後藤さんがリアルタイムで棋譜コメントとして入力していってくれる。

 後藤さんとは、彼のブログのコメント欄で、以前こんなやり取りをしたが、

 『6月9日新潟で (梅田望夫)2009-05-15 10:28:32
昨日、連盟に行きました。棋聖戦第一局新潟でご一緒できそうだと知りました。よろしくお願いします。お会いできるのが楽しみです。』

『Unknown (ごとげん)2009-05-15 12:23:14
梅田さん、見る側も伝える側も最高に楽しい一日にしたいですね。こちらこそよろしくお願いします。』

 今日、僕がこれから書くウェブ観戦記は、棋譜中継の彼のコメント欄の充実と一緒になって一つの成果になる、そんな性質のものと思っていただきたい。

 そんな中、特に今日の僕の仕事は、解説役の深浦さんの将棋知性を、広く一般にわかる形で何とかまとめていく努力をすることだろうと思う。「次の一手」を考える以外に、将棋をもう少し俯瞰して眺める楽しさについて、深浦さんと一緒に追い求めてみたい。

 たとえば、木村挑戦者は、週刊将棋2009/6/10号で、

 『私はねじり合いが好きなのですが、羽生名人はもっと好きみたいです。いつもそれで飲み込まれてしまっているのかもしれません。』

 と語り、五番勝負の見どころはと問われて、

 『やはりねじり合いでしょうか。一直線には終わらない迫力ある攻防をご覧いただきたい。』

 と語っていた。羽生さんも昨日、高島屋に着いた直後のインタビューに答えて、

 『面白い迫力のある将棋を指したい』

 と語ったが、同じ意味のことのように思える。どうも「ねじり合い」ということが、この第80期棋聖戦の大きなテーマのようだ。でも、「ねじり合い」っていったい何なのか。ちゃんと「指さない将棋ファン」にもわかる言葉で、実際の将棋を見ながら、これがねじるということなんですよ・・・というような解説は、あまり聞いたことがない。「深浦さん、明日はそんなこともよろしくお願いしますね」と昨日頼んだら、前夜祭のスピーチで「これから、ねじり合いをどう説明するか、一晩、考えます」と、深浦さんは宣言してくれた。

 将棋というのは、難解で奥が深い。だから面白い、というのは事実だ。でも、皆が力を合わせて、何とか一人でも多くの人にその本質をわかってもらおうと一生懸命努力すれば、もっともっと広く普及できるものだ。僕はそう心から信じているのだ。

=== Copyright (C) 2009 >>> The Sankei Shimbun & Japan Shogi Association === All Rights Reserved. ===