第68期王将戦七番勝負第3局 Feed

2019年2月 6日 (水)

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時刻は16時40分を過ぎました。先ほどご紹介した前例の▲飯塚七段-△戸辺七段戦で▲4五桂と指されていたところで、渡辺棋王が▲9五歩(図)と手を変えています。対して△9五同歩に▲9四歩(以下△同香なら▲8六桂がある)と打とうということでしょうか。▲9五歩を見た久保王将は、二度三度とうなずいて前傾姿勢に。渡辺棋王も呼吸をあわせるように、両手を前に突いて上体を盤に近づけます。対局室の緊張感が高まってきました。

Dsc_8981 (渡辺棋王の一手で未踏の局面に)

那須神社のすぐ隣には、那須与一をコンセプトとして作られた道の駅があります。ここには情報館、加工品や農産物の売り場、レストラン、与一伝承館が設けられており、さまざまな角度から大田原に親しむことができます。

Dsc_8165 (入り口には扇のモニュメント)

Dsc_8168 (那須の与一郷全景。建物の屋根は扇を模している)

Dsc_7940(シンボルになっている凛々しい与一像)

Dsc_8164 (一時はとうがらし生産量全国1位を誇ったという大田原。近年はとうがらしでの町おこしに力を入れており、市内にはとうがらし商品を扱った商店・飲食店が多くある)

【とうがらしの郷 大田原】
http://www.ohtawaracci.or.jp/hot/index.html

Dsc_8177(那須の与一郷で売られているとうがらしコロッケ。程よい辛さがクセになる)

Dsc_8186(こちらはとうがらしジェラート。口に入れると、甘味のあとにピリッとした辛味がきて面白い)

源平合戦の屋島の戦いで平家方の扇を射落としたという弓の名手・那須与一にゆかりのある那須神社を訪ねました。ホテル花月からは車で5分の距離です。
神社の創建は4世紀で、延暦年中(782年~806年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が応神天皇を祀って八幡宮にしたと伝えられています。その後は、中世、近世を通じて那須氏・大関氏の氏神として祀られてきました。

Dsc_7902 (一の鳥居。参道は高い木々に囲まれている)

Dsc_7906(二の鳥居。荘重な雰囲気だ)

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Dsc_7924(色彩豊かな楼門)

Dsc_7925(高欄の上部には扁額)

Dsc_7936(渡辺棋王が2014年に書いた絵馬。当時、王将として第63期の七番勝負を戦っていた)

Dsc_7933(本殿。那須与一は平家方の扇を射落とす際、「南無八幡大菩薩」と念じたと伝えられている)

20190206d15時19分、着々と攻撃態勢を整えていた渡辺棋王が、28分の考慮で▲4五桂(上図)と跳ねていきました。以下、△2二角▲2四歩△同歩▲同飛△3三桂▲同桂成△同角▲2九飛(下図)まではぱたぱたと進行。しばらくは渡辺棋王の動きに久保王将がどう対応していくかという将棋になりそうです。

20190206eなお、▲2九飛までの局面は前例として今年4月に指された第68期王将戦一次予選、▲飯塚祐紀七段-△戸辺誠七段戦があり、そちらは以下△2三歩▲3九飛△4二金▲3五歩△同歩▲4五桂△2四角▲3四歩と進んでいます。

Dsc_9122 (渡辺棋王。うまく攻め手を作れるか)

黒羽城の本丸跡は公園として解放されており、市民に親しまれています。6月下旬から7月上旬には公園周辺に植栽されている約6,000株の紫陽花が咲き誇り、あわせて開催される紫陽花まつりには多くの観光客が訪れるそうです。

Dsc_7803(広々としたスペース。左側に見えるのは、物見櫓を模した展望台)

Dsc_7805 (立派な能舞台があった。「文化伝承館」と呼ばれ、催事の際は郷土芸能などの披露の場として活用されているようだ)

Dsc_7798 (眺望も良好)

黒羽は、江戸時代の俳聖・松尾芭蕉が『奥の細道』行脚の旅程中で最も長く(十四日間)滞在した地です。

Dsc_781001 (午前中に紹介した大雄寺のすぐ先に、芭蕉関連のエリア及び黒羽城址公園がある)

Dsc_7782 (こちらは旧浄法寺邸。黒羽滞在中の芭蕉は、門人だった黒羽藩城代家老・浄法寺高勝の邸宅に主に宿泊した)

Dsc_7779(黒羽滞在中も多くの句を詠んだ芭蕉。そこここに句碑が建てられている)

Dsc_7786 (竹林の中を通って、芭蕉の広場=黒羽城址三の丸に出る)

Dsc_7792 (芭蕉の広場には黒羽芭蕉の館があり、芭蕉や黒羽藩主大関氏に関わる資料が展示されている)

Dsc_7795 (芭蕉と、供をした門人・曽良のブロンズ像)

Dsc_7790 (広場には投句箱も設置されていた)