第66期王将戦七番勝負第1局 Feed

2017年1月 8日 (日)

16時30分、郷田王将が今日3度目の長考に入っています。大盤解説会は飯島七段に代わって、ゲストで中尾五段と八代五段が登場しました。2人は静岡県の普及に尽力した(故)廣津久雄九段の系列にある棋士で、八代五段の師匠の青野照市九段、中尾五段はともに廣津九段門下。中尾五段と八代五段は師弟関係上の叔父と甥に当たります。

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天正18(1590)年、掛川城主の山内一豊は掛川城を拡張しました。竹の丸はこのときに造成されたと考えられています。竹の丸は北門の守りを固める位置にあり、防衛上の要所でした。現在は離れの中を見学でき、見どころのひとつに2階貴賓室のステンドグラスがあります。建物内ではカフェで休憩することもできます。

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15時40分ごろ、控室に高野秀行六段、中尾敏之五段、八代弥五段が訪れました。掛川で講座と指導対局をした帰りとのこと。八代五段は封じ手封筒に触れるのが初めてと話していました。神谷八段は浜松市出身、中尾五段は富士市出身、八代五段は賀茂郡出身で、静岡県が地元の棋士です。高野秀六段と八代五段は継ぎ盤で検討に加わり、中尾五段はその様子を見守っていました。

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掛川での王将戦開催は8年連続。過去の対局について下にまとめました(左側が先手、肩書は当時)。これまで郷田王将は1勝1敗、久保九段は1勝2敗です。

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2016年 第65期 第1局 郷田真隆王将○-●羽生善治名人
2015年 第64期 第1局 渡辺 明王将○-●郷田真隆九段
2014年 第63期 第1局 渡辺 明王将○-●羽生善治三冠
2013年 第62期 第1局 佐藤康光王将●-○渡辺 明竜王
2012年 第61期 第1局 佐藤康光九段○-●久保利明王将
2011年 第60期 第2局 久保利明王将●-○豊島将之六段
2010年 第59期 第3局 久保利明棋王○-●羽生善治王将

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本局の流れを振り返ります。振り駒で郷田王将の先手番に決まり、後手番になった久保九段は△5二飛(6手目)と得意のゴキゲン中飛車に構えました。


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郷田王将はゴキゲン中飛車対策として定番の超速▲3七銀戦法で対抗します。久保九段は△3二銀~△5六歩(18手目)と積極的にさばきに出る作戦を選びました。


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後手が5筋で飛車をさばいたところで、▲6五角(23手目)が序盤の焦点になる一着でした。この手は2011年2月の公式戦で深浦康市九段が初めて指し、その年に公式戦では8局の実戦例が出ています。しかし不思議なことに、翌年以降、ぱったりと見ることがなくなりました。飯島七段は「後手に決定的な対策が出たわけではなく、先手に別の有力な手段が出たからではないか」と分析します。郷田王将と久保九段は、ともに居飛車側を持って経験があります。
【王将戦:郷田 角手放し急戦狙う 険しい局面に 第1局 - 毎日新聞】 http://mainichi.jp/articles/20170108/k00/00e/040/164000c

現地では、13時から大日本報徳社大講堂で大盤解説会が始まっています。最初の解説者は飯島七段。午後になって風雨が強まってきましたが、1日目から多くの方が訪れていました。

報徳思想は二宮尊徳(二宮金次郎)が説いた、豊かに生きるための知恵。会場の大講堂は明治36年に建てられた近代和風建築で、国の重要文化財に指定されています。

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再開の時刻が近づき、郷田王将、久保九段の順に対局室に戻りました。13時30分、記録係の渡辺正五段が再開を告げます。久保九段は駒台の駒に手を触れましたが、すぐには指しませんでした。

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12時30分、久保九段の手番で昼食休憩に入りました。消費時間は▲郷田2時間22分、△久保49分。昼食は郷田王将が天麩羅うどん、久保九段が蟹肉あんかけ炒飯。炒飯のあんは食べる直前にかけるとのことです。対局は13時30分に再開されます。

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12時過ぎ、郷田王将が本局2度目の長考に入っています。消費時間は2時間を超えました。対する久保九段の消費時間はここまで37分。時間の使い方が対照的です。控室では神谷八段と飯島七段が継ぎ盤で検討中。郷田王将が6年前に指されていた手段を採用したことで、何か用意の策があるのではと見られています。

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