2015年1月

2015年1月22日 (木)

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(「通路跡」。発掘調査で見つかった月山富田城の通路跡の断面が見えるようにつくられている。真砂土と粘土の層を交互に14層積み重ねて固めることで、頑丈なつくりになっている)

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(断面図)

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(山中御殿(さんちゅうごてん)跡。山中御殿は月山富田城の最も重要な地点。3つの登り口はここで合流し、本丸に行くには必ず通らなければならない場所だ)

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(山中御殿の石垣)

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(本丸に向かうには軍用道コースと相坂階段コースがある)

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(今回は階段コースを選択した。階段の蹴上部が高い。比較用に500mlのペットボトルを置いてみた。左側は登りやすいように段を増やしたようだ)

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(階段コースもなかなかの山道)

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(花の壇。一面に花が植えられたことからその名がついた。この上にあった御殿との連絡に適していたため、重臣が住んでいたと考えられる)

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(花の壇の門と堀の跡)

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(花の壇の向こう側に見える山に、月山富田城の本丸があった)

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(山中鹿介幸盛の銅像)

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(山中鹿介幸盛(1545-1578)は尼子十勇士のひとり。月山富田城が毛利家の手に落ち、尼子氏が滅亡したあと、尼子勝久を擁して主家の再興を目指したが、捕えられ殺害された。「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」のセリフで知られる)

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(山の中腹までは民家があり、車の乗り入れもできる。続きはまた後ほど掲載)

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(千畳平。「広場」の意味で、ここはまたの名を「太鼓壇」という。尼子経久の時代、ここにつるした太鼓で時刻を知らせたことに由来する。千畳平は尼子時代の「勢揃い場」でもあった)

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(樹齢400年を超える椎の木。毛利家が月山富田城を攻めた際、「難攻不落」と謳われるだけあって苦戦し、兵糧攻めに切り替えた。そのときにも城内に植えられていた椎の木の実を食べて持ちこたえた。昭和期までは毛利の射た矢じりが残っていたと言われている)

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(尼子時代、石垣の上には櫓が建っていた)

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(飯梨川の川辺にある三日月公園の遊具)

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(安来市立歴史資料館。古代や中世・戦国時代の出土品が展示されている)

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(歴史資料館の近くにある、月山の模型。幅、奥行きは3メートルほど。実際の月山富田城は東西、南北とも1200メートルあった)

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(月山富田城の各施設跡がわかるようになっている。複雑な尾根や谷が難攻不落の名城を作っていることがわかる)