高瀬川沿いを歩く(1)
高瀬川は人工によって作られました。1608(慶長 13)年に方広寺大仏殿の再建工事において、当時の鴨川は暴れ川で、川の水運を利用した運搬が難航。そこで資材運搬を担当した角倉了以が運河の開削を幕府に願い出て、1611 ~1614年に掛けて高瀬川を完成させたのが始まりです。水深は約30cmの浅い川で、二条大橋の西畔の水取り口から鴨川の水を引き込んで南下し、最後は伏見港を通って宇治川に合流する約10kmの運河でした。現在は鴨川によって京都側と伏見側に分断されていて、上流側を高瀬川(普通河川高瀬川)、下流側を東高瀬川(一級河川東高瀬川)、新高瀬川と呼ばれています(写真は数日前に撮影)。 (高瀬川を下流に望む。流れはかなり緩やかだ)
江戸時代に作り上げられた高瀬川において、荷物のあげおろしをする船溜所を「船入」と呼び、川の西方の堀割を「一之船入」と呼びました。当時は九之船入まで九つの船入所が設けられていましたが、明治時代に入って高瀬川は舟運の機能を失い、一之船入だけが現存。それ以外の船入は石碑が立てられ址(跡)地となっています。今回はその9つの船入址をすべて見つけ出すべく、高瀬川沿いを歩いてみます。
(現存する一之船入に浮かぶ高瀬舟。高瀬川の浅い水深に合わせ、浅く平らに作られている。当時は5・6隻を繋いで一組とし、それを14~15人で綱で引いて伏見から京都まで引き上げていた)
(二条にある「一之船入」。高瀬川の起点でもあり、江戸時代の交通運輸の貴重な遺跡として国指定の史跡になっている)