徳川家康の孫娘千姫は、7歳で大坂城の豊臣秀頼のもとに輿入れしました。しかし秀吉死去のあと、大坂夏の陣で夫・秀頼は自害し、豊臣家は滅亡。千姫は燃えさかる炎の中から助け出されました。江戸城に帰る道中、警護にあたっていた本多忠政の息子・忠刻と20歳のときに再婚。千姫の化粧料(持参金)10万石で、姫路城の三の丸には武蔵野御殿と呼ばれる千姫の屋敷が建てられたと言われ、さらに勝姫と幸千代の一男一女にも恵まれて「千姫は忠刻と暮らした姫路城での生活(10年間)が生涯でいちばん幸せだった」と語られています。
◆西の丸◆
この曲輪は、姫路城主本多忠政が大坂夏の陣のあと、千姫と結婚した息子・忠刻のため、1618年に御殿を建てたところで「中書丸」とも言われていました。中書とは、忠刻の官職・中務大輔の唐名です。
◆百間廊下◆
西の丸を囲むように築かれた長屋。長さが約300メートルあり、とても長いという意味で「百間廊下」と呼ばれています。城外側が廊下、城内側が部屋になっており、城外からの攻撃に対する防御機能もありました。
◆化粧櫓◆
千姫が、この櫓を休息所としたことが名称の由来。部屋には極彩色の豪華な装飾が施されていました。
(夏芽)