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2008年10月18日 (土)

【梅田望夫観戦記】 (3) F1と装甲車

 羽生挑戦者が△7四歩と指したところで、私は対局室に入ったが、渡辺竜王はこんこんと考え続け、なかなか次の一手を指さない。十分、二十分、三十分と、時間だけが過ぎていき、二人の姿に大きな変化はない。

 ときおり深いため息をつき、二人は視線を盤面から虚空に転換する。

 静寂な対局室の中に入って、長考する棋士たちの周囲を流れる時間の中に身をおくという経験は、現代社会のどこを流れる時間とも異なる。

 渡辺竜王は41分考えて▲2五歩(21手目)。羽生挑戦者は△3三銀(22手目)。そして竜王は棒銀の方針を示す▲2七銀(23手目)。そして羽生挑戦者は△7三桂(24手目)。

 すでに対局開始から三時間が経過しようとしている。濃密な時間の流れの中で、二人は、それぞれ12回ずつしか手を指していない。

 

 将棋というゲームは一手の価値がおそろしく重い。

 そんなことを改めて考えたのは、深浦王位と次のようなやり取りをしたこともあった。

 羽生七冠ロードをストップして王位を防衛した深浦王位は、このひと夏をかけて羽生四冠と死闘を演じた。読売新聞紙上座談会で「竜王戦は4勝2敗で渡辺竜王の防衛」を予想した深浦さんに、このたびの竜王戦の見どころについて、また対局者二人の違いについて、質問メールを送ってみたのだ。

 深浦王位からの返答メールは、こんなものだった。

 『羽生さんと言えども、振り回されるかも知れません。なので作戦に注目してます。渡辺さんの「堅さと攻め」にどう対抗するのか。ただ渡辺さんの方が、序中盤で離されないように、という対策の方が深刻でしょうね。可能なら昨年の渡辺佐藤戦の4局目を見て戴きたいのですが、佐藤さんの角交換向かい飛車に渡辺さんが淡々と穴熊に囲った将棋です。一手でも得して、中終盤へのスピード感に繋げたい、と考える羽生世代に対して、渡辺さんは序盤に65角と打たずに自分の将棋(穴熊)を貫きました。序盤ですと、この1局面に象徴されてますね。局面によってはF1と装甲車ぐらいに違うと感じる事もあります。正直、始まってみないと判りませんが、久々に自分以外でワクワクする将棋ですね。 深浦康市』

 羽生さんがF1で、渡辺さんが装甲車かあ。

 深浦さんが語る「昨年の渡辺佐藤戦」について調べてみたら、深浦さんと渡辺さんが将棋世界08年6月号で対話している記録があった。

 『深浦 … 後手から角交換して向かい飛車。▲6五角を打つなら打ってみろという作戦ですが、それに対して渡辺さんが我関せずという態度で淡々と穴熊に組んだのが印象的だった。後手としてはめいっぱい頑張った作戦だけど、頑張ってこの程度の分かれになるんじゃつらい。手損振り飛車が成立するかどうか、昨年のテーマの1つだったけど、この将棋以来、後手からの角交換振り飛車は減ることになったと思う。
 渡辺 これねえ、1手で△2二飛と回られるのはしゃくなんだけど、怒って▲6五角打つほどじゃないと思ったんだ。後手としては▲6五角打たれるリスクもあるし、この将棋のようにじっくり穴熊に組まれるリスクもある。それだけリスクを負うなら別の将棋にしたほうがいいというのが、最近の後手の傾向ですね。』

 盤面の詳細はともかく、わずか一手の指し方の違いという盤上でのやり取りから、二人の将棋を「F1と装甲車ぐらいに違う」と感ずるという深浦さんの感性から、たとえば野球のようなスポーツにおける一つ一つの動き(投球やバットスイングなど)に比べて、将棋の一手には破格の重みがあるものなんだなと思ったのだ。

 

 ところで「野球術」という本がある。熱狂的野球ファンで政治評論家のジョージ・ウィルが、四人の野球知性に密着取材して現代野球の神髄を解き明かした不朽の名著である。その中にこんな言葉がある。

 『ほんとうの野球ファン、すなわち深い知識と豊かな想像力と鋭い観察力にめぐまれた野球ファンになるのは、そう容易なことではない。ぼんやりと野球見物するファンがナイフで木を削っている人々だとしたら、ほんとうの野球ファンとは、石を彫り刻んでいる存在に近い。石を彫り刻むという行為は、彫る人の心に、たえずなにかを問いかける。そもそも、ゲームを見にいく際に、「テイク・イン」という言葉の使われるスポーツが野球以外にあるだろうか? 野球の場合、われわれは「明日の晩の試合、テイク・インしようぜ」などという。ほかの競技だと、こんな言い方はしない。これは野球特有の言いまわしだ。野球というスポーツには摂取するべきものがたっぷりある。摂取したものを吸収(テイク・イン)する時間もふんだんにある(といっても、ありあまっているわけではない)。だからこそ、こういう言い方が生まれたのかもしれない。』

 長考する棋士を眺めながら、序中盤の難所の局面での次の一手の意味を考えることは面白い。ただそれは、将棋の強い人たちに許された特権的な楽しみである。

 しかし将棋を観る楽しみはそこにだけあるのではない。必ずしも将棋が強くなくても、「深い知識と豊かな想像力と鋭い観察力にめぐまれた将棋ファン」になることができるのではないだろうか。

 無限に広がっていく将棋のさまを眺めながら、将棋についてかつて語られた豊穣な言葉を思い起して考えたり、別の芸術の世界を連想してその共通するところを抽出したり、そこから得られたエッセンスを現代を生きる糧にしようとしたり、私たちが一局の将棋から吸収(テイク・イン)できることはたくさんある。

 ジョージ・ウィルにおける野球という言葉を将棋に置き換えたら、こうなる。

 『ほんとうの将棋ファンとは、石を彫り刻んでいる存在に近い。石を彫り刻むという行為は、彫る人の心に、たえずなにかを問いかける。芸術かつ頭脳スポーツである将棋には摂取するべきものがたっぷりある。摂取したものを吸収(テイク・イン)する時間もふんだんにある(といっても、ありあまっているわけではない)。』

 なにしろ野球と違って、二日間にわたって、一局の将棋が指されるのだ。「テイク・イン」という言葉は、野球以上に将棋にフィットするのである。

 

 ちなみに、今日明日の対局にのぞむ羽生さんの抱負は「パリらしく芸術ともいえる将棋を指したい」である。


 

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