2014年2月22日 (土)

兼六園

以下の文は兼六園パンフレットより。

兼六園は江戸時代の代表的な林泉回遊式大名庭園の特徴をそのまま今に残している。
もともと兼六園は金沢城の外郭として城に属した庭であった。庭としての歴史は、城に面した傾斜地が古い。加賀藩5代藩主・前田綱紀が1676(延宝4)年、この地にあった作事所を城内に移し、蓮池御亭を建て、その周辺を策定した。これが本園の始まりで、当時、蓮池庭などと呼ばれていた。
1759(宝暦9)年の金沢大火で、蓮池庭も一部焼失、荒廃した。11代藩主・治脩は復興に取り組み、1774(安永3)年に今にみる夕顔亭や翠滝を築造している。
一方、東南の平坦地である千歳台一帯は、7人の家臣の屋敷があったり、藩校が建てられるなどの変遷があったが、1822(文政5)年には12代藩主・斉広の豪壮な隠居所「竹沢御殿」が完成している。その庭には辰巳用水を取り入れて曲水をつくり、各種の石橋を架けた。竹沢御殿の完成した年に、斉広は奥州白河藩主・白河楽翁に庭園の命名を依頼した。楽翁は中国宋の時代の詩人・李格非の書いた「洛陽名園記」の文中から探って、宏大・幽邃、人力・蒼古、水泉・眺望の六勝を兼備するという意味で「兼六園」と命名した。
竹沢御殿完成後、わずか2年で斉広は死去した。同御殿を取り壊した13代藩主・斉泰は、霞ヶ池を掘り広げ、曲水の新たな取り入れも行い、以前からあった蓮池庭と調和するよう作庭した。
こうして、今にみる雄大な回遊式庭園の基本的な構図はできあがった。
廃藩後、1874(明治7)年5月7日、兼六園は一般開放された。1922(大正11)年3月8日に「史蹟名勝天然紀念物保存法」の規定により、“名勝”の指定を受けた兼六園は1950(昭和25)年、現「文化財保護法」により、改めて“名勝”の指定を受けた。
さらに、1985(昭和60)年3月20日、“特別名勝”となった。

Img_4334

Img_4338

Img_4347

Img_4351

Img_4352

Img_4353

Img_4365

Img_4371

(文)